降誕会
法話

たのませてすくう

弘教寺 小林覚城

 💚5月の法話💚 

5月21日は親鸞聖人がお生まれになられた日であり、西本願寺にて毎年「宗祖降誕会」が勤められます。皆で聖人のご誕生を喜び、御祝いを致しましょう。

 さて、親鸞聖人が明らかにして下さった阿弥陀仏のおすくいとは一体どういうものでありましょうか。

 聖人は晩年、『自然法爾章』に次のように著しておられます。

「弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ」

…この自然というお言葉は、南無阿弥陀仏それ自体が私を「すくうようになっている」「すくうようにはたらいている」ということです。阿弥陀仏のご本願は、最初から私の考えとは関係なく、南無阿弥陀仏にまかせるようにして、その人を迎えとるようにされています。そのため、私がこうしたら救われるだろうかとか、こういうことでは救いから遠ざかるのではなかろうかという考えを離れさせるおはたらきを「自然」というのだとおっしゃっています。〈意訳は主に宮田秀成氏のホームページより引用〉

 阿弥陀仏は「私にたのませて、私をすくう」行動に踏み切られたお方です。

 実は私のすくいは既に成就されています。「あなたを仏に仕上げなければ、私は仏に成りません」という願い〈御本願〉を発(おこ)された法蔵菩薩は御修行の結果、遠い昔にもう阿弥陀仏にお成りです。願いは成就されているのです。だから私のこのいのちは必ず仏に成らせて頂くのです。

 でも、そのことをなかなか有り難いと思えない、喜べない私です。

 そもそも私達とは仏様だけでなく、出来れば他を頼りたくない、人任せにはしたくない存在です。自分の人生ですから、自分で精一杯頑張って、しっかり生きたいと思うのです。

 心の奥底まではわかりませんが、犯罪者本人は犯罪行為も自分が生きるために、自分の思いを遂げるために必要なことだったと正当化しているかも知れません。どれだけ人を傷付けても自分は生きていたい。道徳上は到底許されませんが、そんな思いは人が何とか生きたいと願う執着心から生まれるのです。

 誰も自分の心には逆らえません。自分の心に則って、為すべき(と思う)行動を起こします。つまりどうあっても自分の思うように生きようとする私達です。

 しかし、そうはいきません。自分の心の要求をどれも叶えたい、でもそんなことは出来るはずがない。出来ないから苦しみます。またもし出来たならば他者を傷付け、又他者から深く傷付けられてしまう結果となることでしょう。どうにも心は満たされず、どうあっても苦しむ私達です。

 そんな私のおすくいとは何でしょうか。

 「われ・阿弥陀に任せることが出来るようにしてやることしかない。われに任せることで、この者を何とか自ら生み出す苦悩から離れさせてやりたい」

 阿弥陀仏はそう私を見抜き、すくいを誓われました。そして決して休むことなく、今まさにこの時、私の為におはたらきづめです。

 「たのませてすくう」ゆえに「たのんだまんまがおすくい」とは、詰まるところ阿弥陀仏にお任せすることで、自分への執着を離れることにあります。執着とはしつこい我が煩悩のことです。

 南無阿弥陀仏のお念仏が私のところに届いて下さっている。それこそは「必ず救う、われにまかせよ。まかせてくれよ」の阿弥陀仏のお喚び声であったと頂きます。その御声をそのまま頂くことこそが浄土真宗のおすくいであります。命終わりて御浄土に参る前に、もう既に我は阿弥陀仏のおすくいの中にある。私は今現在おすくいの真っ只中なのです。

 この尊い阿弥陀仏のおすくいを明らかにして下さったのが親鸞聖人です。共々に感謝の思いからお念仏申させて頂きましょう。