浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

11月法話 御同朋の野良猫

11月法話 御同朋の野良猫

御同朋の野良猫

龍昌寺 石塚龍悠

 先日のことです。買いものから帰り自宅へ戻ろうと車を降りると、なにやら見慣 れぬ影が敷地と道路の境にうずくまっていました。見やるとそれは灰色の野良猫で、 じっとこちらをにらんで微動だにしません。通りがかった近所の方に話をうかがい ますと、どうやら朝からずっと居座っている様子。毛並みは使い古したタオルのよ うにゴワゴワでやせ細り、傍からみても衰弱しているのがわかります。

 さすがにそのまま放っておくわけにもいかず、お世話になっている市川市の動物 病院で診察していただくと、歯の状態から察するにおそらくは10歳前後だろうと のことでした。もとから野良だったのか、どこかの飼い猫だったのかは定かではあ りません。いずれにしても体力が回復するまで玄関先で面倒をみるつもりでしたが、 問題が1つありました。先に居着いていた黒い野良猫です。

 この黒猫は縄張り意識がとても強く、自分の縄張りに近づく猫はすべて追っかけ まわしてしまうため、家内で飼っている猫たちを外へ散歩に出すときは黒猫がいな いタイミングを見計らって、というありさまでした。灰色猫はケンカができるよう な状態ではないので、万が一の場合は家の中で飼うことも視野に入れていたのです が、結局その心配は杞憂におわりました。

 その日の夕方、ご飯をあげに玄関の扉をあけてみると、黒猫は灰色猫に餌皿のま えを陣取られても黙って見ています。灰色猫を見てなにか思うところがあったのか、 黒猫は威嚇するそぶりもみせずに灰色猫のそばに、じっとたたずんでいました。

 ときたま誤解されている方がいらっしゃるのですが、浄土真宗では僧侶とご門徒 さんの関係性は、師匠と弟子のようなものではありません。真宗を仰ぐものは皆、 阿弥陀さまの弟子としての道をともに歩む御同朋・御同行として等しく扱われます。 ご縁があって阿弥陀さまのはからいに気づくことのできた人がいたとして、あとか らやってきた人より優れているというわけではないのです。

 なぜなら阿弥陀さまは一切の衆生をお救いになるとはじめから誓っておられます ので順番は意味がありませんし、わたくしが浄土に往生できるのも自分の力ではな く阿弥陀さまの力によるものですので、したり顔をして偉ぶるというのも見当違い というものです。

 蓮如上人の御文章のなかには

(前略)故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつ れ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の 御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教 法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをを しへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。 これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。(後 略) 【注釈版聖典第二版 1083 頁・御文章一帖 1 条・門徒弟子の章】

という一節がございます。これによると、親鸞聖人は「自身の弟子は1人も持って はいない。なぜなら自らが悟りをひらいて得た教えを広めたわけではなく、ただ如 来の教えを代理人として広めただけにすぎないのだから、弟子と呼べるものを持つ だけの理由がない」とおっしゃっていたそうです。ですから浄土真宗の僧侶と門徒 の関係は「師匠と弟子」ではなくともに歩むもの「御同朋・御同行」として言いあ らわすのが良い、とこのお手紙には書かれています。

 我が家の黒猫の餌も決して自分の力でとったものではなく、家人から与えられて 得たものです。それを自らのものだと威張りちらして喧伝することなく、素直に味 わえるようになったのは、ひとえに灰色猫がもたらしてくれたご縁かもしれません。

南無阿弥陀仏

 

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