舞踏俑
法話

浄興寺住職 渡辺恒行

 💚6月の法話💚 

 先日、出先から帰宅途中に何となく思い付きで子ども達にドーナツを買って帰った。 帰宅した私が
「ドーナツ買って帰ったよ。食べんさい。」
というと、子ども達は喜んで飛んできて
「食べたい。食べたい。」
と騒いでいる。 私が
「はい、どうぞ」
とテーブルに広げたドーナツを見て、息子は突如
「食べない!」
と怒りだした。 私が
「なして?食べんの?」
と問うと、息子は怒り心頭で
「これはドーナツじゃない!」
という。 私が
「なして?これドーナツじゃろうが?」
というと、息子は
「これはドーナツじゃない。」
と目に涙を浮かべて訴えてくる。 私が訳が分からず
「なしてかいの?」
と問うてみると、息子は
「ドーナツは丸くて真ん中に穴があいているの!」
と・・・
「だから、これはドーナツじゃない。だから食べない!」
と・・・。
 今回、私が買って帰ったドーナツはネジネジ棒状のドーナツだった。
(その時にこの会話を聞きながら娘は2つ目のドーナツに手を伸ばしていた)
私が
「ええから、食べんさい。どうせ口に入れたら形はなくなるんじゃから。」
というと息子は
「嫌だ!絶対に食べなない。」
と言い張って涙を流している。実につまらん意地である。
  また、「これ」は「こういうもの」という固定概念だ。 ただ、それを息子本人も分かっている。 自分がつまらない意地を張ってしまった為に収拾が付かず、目に前にあるドーナツを自分で食べれなくしてしまっている。 しかし、引けないのである。
 我々の「心」は我々にもどうすることも出来ない。親鸞さまが何度も自ら書写し、関東の門弟に送られた『後世物語聞書』には、当時の念 仏者の悲痛な問いが記されている。
「かかるあさましき無智にのものも念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、その後ひとすぢに念仏すれども、まことしく、さもありぬべしとおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。」
(浅ましく何も知らない無智な私であっても、念仏をすれば極楽に往生できるとお聞きしましたので、それからというもの、ただ一筋に念仏を申してまいりました。しかし、私が本当に極楽往生が出来るとは、どうしても思う事ができません。私はどうしたらよいのでしょうか。)
「またあるひといはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとしひさしくなりゆけれども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろくなる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあらねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこそ候へ。」
(また、ある人が言いました。念仏を称えると、これまで犯してきた様々な罪が消えて、摂取の光明に照らされて、心が楽になると説かれていると聞きました。しかし、随分長い間、念仏してまいりましたが、三毒(欲望・怒り・愚かさ)の心ばかりが湧いてきて、私の心はいよいよ悪くなってきます。善い心など日々生じることもありません。
この様な事ですから、阿弥陀さまの願いを疑っているのではありませんが、私の心根の悪さを鑑みると、極楽往生など不可能だと思ってしまいます。)
 美しく綺麗な心など、私には有り得ないのであります。 我が心ながら、私には為す術がないのであります。 だから阿弥陀様さまは私の為に泣かれ、願われるのであります。
 亀井勝一郎は著書『愛の無常について』の中で
「十年ほど前、私がはじめて仏教に思いを凝らした時、入信すれば安心が得られる、心の動揺も止み、悟りが開かれる、と考えていたのもですが、親鸞に邂逅してこれは完全に破砕されました。人間として悟りを開くことなど、有り得べからざる事だというのです。」
「私は親鸞にこれを聞き、不安は不安のままに、罪の意識は罪の意識のままに、矛盾は矛盾のままに謝念が湧出してきたのであります。「私はあなたを慰めることが出来ない」親鸞はかく言っているように思われます。その言葉こそ私にとって最大の慰めとなるのです。」
 私は涙を目にいっぱい溜めて「食べない」という息子を見ながら、「アホやな~」という思いと同時に、たまらなく「愛おしい」と感じておりました。親さまである阿弥陀さまの眼差しの先には、どうしようもない私や息子、そして全ての衆生が居ると感じるのです。
                                    合  掌