梵本心経 尊勝陀羅尼
法話

弟子えらび

西光寺 吉弘一秀

 💚3月の法話💚 

 とある昔話をひとつ

 あるお寺の住職が、弟子の中から後継者を選ぼうとして、部屋に弟子たちを呼びました。
「これからお前たちの中からわしの後継ぎを選びたいと思う。お前たちはこれから3日後までに村長に預けている幾らかの経典を誰にも見つからぬように持ち帰るのじゃ。それができたものを後継者とする。」
言われた弟子たちは
「え??なんでそんなことを言うんだろう。でも師匠の言われることだしなぁ」
と弟子たちは不思議に思ったけれども、後継者となるため夜になると村長の家へ出かけて行ったのです。そして3日後・・・
「師匠、仰せの通りに皆それぞれが、誰にみつからぬように経典を持ってまいりました・・・が・・・」
「が?」
「ただひとり、珍念だけが持ってきていません」
「珍念、なぜ何も持ち帰らなかったのだ」
「師匠の言いつけに従ったからです」
「それはどういう意味かね。私は経典を持ち帰るようにと伝えたはずだが」
「はい、そのように仰せでした。しかし、師匠は誰にも見つからぬようにと言われました。私も家に忍び込みました。家の者はぐっすりと眠っております。いざ、経典に手をかけた時に誰かが見ていることに気が付いたのです。ですから私は持ち帰ることは出来ませんでした。」
「おかしいではないか。家の者は寝ていたのであろう」
「はい。」
「では誰が見ていたのかね。」
「私です。私が見ていたのです。ですから何も持ち帰らなかったのです」
「よろしい。そなたを後継者とする。人は自分を見ることはなかなかできぬ。人に厳しくはできるけれども、自らの行いを確認することはそうは出来ない。自らを問う。これぞ仏法じゃ。皆の者、珍念を支えるのじゃぞ」
と、後継者選びがおわったそうな。

 さて、様々な仏像を拝見すると目がぱっちり開かれるのではなく、半分だけ開いています。これは、仏さまの眼は半分は外を向き、半分は自己の内側を見ているとされているためです。仏法は自らを問う事が大切なのです。
 親鸞聖人は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と、自らを厳しく見られました。そして、怒り、そねみ、妬みなど、様々な煩悩を抱き、さとりの糧となるものは自らには何もないものこそ、すくいたい仏がおられる、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得」それが阿弥陀如来である。その阿弥陀如来の呼び声が、南無阿弥陀仏の念仏です。なかなか理屈ではわかりにくい部分かもしれませんが
  われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 かならずすくうの 弥陀のよび声.
  よくよく自らをみればはずかしいことばかり、それを見捨てぬ阿弥陀如来の大慈悲に頭を下げても下げきれません ただ聞くばかり