6月 法話「乱世に生きる」

髙林寺 菅原智之

コロナ禍による先の見えない不安。我々はどうなるんでしょうか。
これに対する見解を問われることもありますが、仏教的意味合いを見出すことはないと考えています。何故ならば大変な出来事ですが、それは仏教がいつも語ってきたこと以上のものではないからです。

17世紀のフランスの文学者、ラ・ロシュフーコーは「太陽と死は直視できない」と語りました。私達は、自分が受け止めることができる範囲のものしか見ようとしません。その直視できないものの代表は「生・老・病・死」なのでしょう。それは仏教がいつも問題とする最大のことでした。

500年前も疫病の災禍に襲われていました。その中で蓮如上人は御文章四帖九通に次の様に記されました。
「当時このごろ、ことのほかに疫癘(えきれい)とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。」

確かに私達は「生まれた」のです。「老病死」を背負って。生と死はいつも隣り合わせ。新型コロナは、その事実を改めて浮き彫りにしました。都合の良いことしか見ていなかった私の心の闇を。それが迷いの姿であったことを。仏教はその「私」を問題とします。

某週刊誌の見出しに「不要不急、それは俺の人生そのものだった」とありました。思わず苦笑し頷きました。今私達は「不要不急の外出を避けよ」という要請のもと、あらゆる用事を見直しました。その結果、暇をもてあましています。現代人は大変忙しい日々を送ってきましたが、その忙しさとは何だったのかと考えずにはおれません。

現代文明という強烈な灯りが照らし出す、快適で便利で豊かな生活。しかし照らされるほど、陰はくっきり現れます。老病死という漆黒の闇が。そして今、問われています。「私は何を求めて生きていたのか」と。

結局我々の求めているものとは、「私が認められる」と言う欲求を満たすことではないでしょうか。しかもその認める主体は他人ではありません。他人に認められたというプライドを満たすのも「私」なのです。それが私のかかえる漆黒の闇です。そしてその為に必要なモノを手に入れる。故に忙しい日々を送っています。でもそのこと自体が揺らぐ。それがコロナ禍のもたらした最大の問いだったのでしょう。

蓮如上人は続いて仰います。
「阿弥陀如来の仰せられけるやうは、『末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし』と仰せられたり。」

阿弥陀如来は、生老病死する私を「あるがままに光り輝くあなたです」とそのままに認め、包んでくださいます。南無阿弥陀仏のお念仏は、如来からの喚び声。如来の救いとは、右往左往四苦八苦する歩みは、「私が認めるか、認められないか」に関わらず、決して虚しく過ぎる人生ではないと抱き取って離さない温もりでした。

あらゆる天変地異・戦乱や疫病などの乱世に見舞われてきた人々を、お念仏は導いてきました。その心を噛み砕いて、ある老僧は言いました。「生きてる間は生きてるぞ」と。如来が見ていてくだる。だから、なすべきことをなし、とりこし苦労をせず、お念仏と共に強く生きぬいて参りましょう。 合掌

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