浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

千葉組日記

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9月法話

9月法話

延覚寺 野口隆顕

は、築地本願寺に行くとき電車を利用するのですが、ある時電車の発車ぎりぎりに飛ぴ乗ることがありました。その時は「まにあった」と安心したのですが、電車が動き出してから車内アナウンスで「乗客のみなさまにお願いいたします。駆け込み乗車は大変危険ですのでおやめください」とアナウンスされました。

 

その時私は「ああ自分のことを言われた」と恥ずかしくなりました。電車を利用した事のある人は一度くらいこのアナウンスを聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

この時、乗客のみなさまと言われていても自分のことと分かっているので、これはあなたのことですよとアナウンスを聞いているのですが、電車に乗っている時に同じ放送を聞いたら「誰か駆け込み乗車したんだな」と思うだけで自分には関係ないと聞き流してしまいます。

 

『歎異抄』に親鸞聖人のおっしゃっていたこととして「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」

意訳すると「阿弥陀如来が五劫もの長い間、迷いの衆生を救わんがために思いをめぐらして建てられた本願をよくよく考えてみれば、それは親鸞一人を御救いくださるためであった」

 

後に続けて「思えぱこの私はそれほど重い罪背負っている身であるのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀如来の本願のなんともったいないことであろうか」とおっしゃっています。

阿弥陀如来の本願を我がこととして受け止められたのが親鸞聖人です。そして教えを説かれる時も他人事ではなく我が事として信心を語られていたのではないでしょうか。

 

浄土真宗では「聞法」ということを大切にしています。しかしこの時にどれだけの人が「自分自身の問題として御教えを聞いているか」と聞かれるとなかなか答えづらいのではないでしょうか。法話を聴聞していても「ああこれはあの人のことだな」などと考えて、自分のこととは思っていないのではないでしょうか、聞法とはそうではなく聞かせていただくほどに罪深い自身の姿に気づかされる。そんなわたしのためにこそ阿弥陀如来は願われているのだと味わってゆける聞法を心がけていきたいと思います。

8月法話「泥沼に咲く花」

「泥沼に咲く花」

天真寺 西原龍哉

 

「泥沼」とは泥深い沼、一度落ち込むと抜け出ることが困難な悪い状況をあらわす言葉です。しかし、その泥沼に根を張って綺麗な花を咲かせるのが蓮です。

 

数年前から、お寺で蓮を育てています。毎朝のように新しい花を咲かせてくれますが、4日間で散ってしまうため、そのはかなさと清浄な雰囲気を楽しんでいます。花にばかり気を取られがちですが、根を見ると、泥の中に張っています。泥があればこそ、綺麗な花を咲かせることができるのです。『維摩経』には、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなわち此の華を生ずる」と説かれます。泥沼の中から清浄な花を咲かせる蓮に、仏様のお徳を見るのです。

 

仏教では、『妙法蓮華経』と蓮の名前のお経典があったり、仏様のお座りになる台座を「蓮座」と呼んだり、仏様をたとえる花として蓮をとても大切にしています。『阿弥陀経』には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」と、お浄土で色とりどりの蓮がそれぞれに輝く様が示されます。花は自ら輝きながら、お互いをも輝かせ合っているのです。私たちも顔、性格、能力も違いますが、違う色に染まる必要はなく、ありのままで尊い存在であることを教えてくれます。しかし自らを見つめてみると、他の人をうらやんで「ああなりたい」「こうなりたい」と、違う色に染まろうとして苦しんでいる私がいます。そこには、自己中心的な欲望にとらわれ、苦悩に沈む泥沼の人生しかありません。

 

熱心な念仏者である妙好人に、お軽さんという女性がいました。お軽さんは、享和元(1801)年山口県六連島で生まれました。少女時代は気性が激しく男勝りの性格をしていましたが、19歳の時に婿養子に迎えると、お軽さんは夫に懸命に尽くしました。しかし、二人の関係に亀裂が入ります。野菜の行商に出ていた夫に愛人ができたのです。お軽さんは嫉妬に怒り苦しみ、苦悩の日々が続きます。この出来事がご縁となり、お寺参りするようになり、やがて熱心に聞法するようになりました。そのお軽さんが詠まれた一句「重荷おうて 山坂すれど 御恩おもへば 苦にならず」。苦悩を背負う私の上にも阿弥陀様は「南無阿弥陀仏」と届いて下さっていたと味わい、そのお慈悲を深く喜ばれたのです。

 

自らの苦悩は、自ら引き受けて生きていくしかありません。他の人をうらやんでも、不幸を嘆いても、苦悩はなくなりません。しかし、阿弥陀様のお慈悲を聞かせていただくなかで、「私は一人ではなかった、仏様が一緒に悲しんで下さっていた」とその苦悩を乗り越える力をいただくのです。仏様の世界は、私の苦悩が苦悩のままで終わらない世界です。仏様の教えを聞かせていただくと、苦悩の中で生きている私のいのちに光をいただくのです。光を受けて、蓮のようにそれぞれのいのち輝かせ、精一杯日々を過ごしたいものです。

7月法話「1÷1/10=」

1÷1/10=

西光寺 吉弘一秀

問題

1÷1/10=

 

久々の分数の割り算いかがですか?

答えは10です。

正解しても何も出ません^^

さあ、ここで一緒に考えていただきたいのです。なぜ割り算なのに答えが増えるのか。

学校では、分数の割り算は、割る方の分母と分子をひっくり返して掛け算をすると教わりました。

1×10=10だと…。

もし子供に「なんで?」と聞かれたら私は困ってしまいます。

 

佐治晴夫さんという物理学の先生がおられます。この方は、扇風機にゆらぎの機能を付けた第一人者で、仏教や音楽にも精通しておられる方です。本も出されその中で、佐治先生が分数の割り算について、

「何で1/10で割ると答えが大きくなるのかと子供に聞かれたらそれは、『不思議の国のアリス』にように、あなたが小人になったと思いなさい。同じものがあるときに、あなたが10分の1の大きさの小人になったら相手は10倍に大きく見えるでしょう? 人間の目では1に見えることも、小人には10に見え、虫には100や1000にも見える。」

と言われました。なんとも素敵な例え方ではないでしょうか。感性を刺激する数学です。

 

 これを見ました時に、仏教が説く「我執」からの解放につながる話ではないかと思ったのです。「我執」とは、執われのこころ、偏見や固執したものの見方をさします。この「我執」を数式化して先ほどの式の割るほうに当てはめてみしょう。我々が見えている世界をnとしますと、n÷我執=n/我執=その人の見えている世界

我執が大きくなればなるほど見える世界は小さくなります。世界が小さくなると、すこしのずれも許せなくなってきます。反対に我執が小さいほど、見える世界は大きくなります。「我執」を小さくしていくこと、「我執」から解放されることを仏教は目指します。

 

 さあ、ここで問題なのが、「我執」の心からどう離れられるのか。そう離れることはできません。たとえ、ひとつの我執から解放されても、また新たな我執がすぐさま現れます。一つの願いが叶っても、また新たな願いが出てくる。尽きることのない、終わりのない障害物レースを走っているかのようです。

阿弥陀如来という仏様は、そのような凡夫の姿をご存知です。それを承知の上で私を、あなたをすくおうと仏となられました。浄土真宗の教えの要は、私は我執を持ち続ける人間であると自覚すると同時に、その私を必ずすくうと誓われる阿弥陀如来の本願を頂く事なのです。

 

南無阿弥陀仏

6月法話 火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

釋義顯

火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします『歎異抄‐御序より』

 「火宅無常の世界」とは、火の着いた家が崩れ落ちていくような無常の世界のことで、とても安心して住める状況ではありません。その世界は、真実と呼べるようなものはなく、すべて空言、虚言であり、ただ念仏のみが真実であるということです。

 

 

最近、某大学のアメリカンフットボール部の問題が世間を騒がしています。

私は高校時代にラグビーをやっており、今は亡き伝説的な人物S師に憧れ、この大学にスカウトをされセレクションに参加し、練習にも招待されていました。(聞く話によると推薦書類の不備により落ちましたが、当時一部リーグに所属する別大学チームで諸事情により辞めるまでアメフトをしていました。)

S師が引退され、まさに体制が変わりつつあった頃です。

もし、入っていれば、あの選手と同じディフェンスエンドをしていたかもしれません。年代は違うものの、ひょっとしたら私が当事者になっていた可能性もゼロとは言い切れません。

とても、他人事ではありません。

 

選手、プレー、監督・コーチ、指導方法、大学の対応…。

私は「他人事ではない」とは言え、所詮部外者です。

これらどうこうは、“真相を知らない”ので、私からの公言は控えさせて頂きますが…

アメフトが大好きな者として不満、苛立ちはあります。

 

しかし、なにより「不思議だなぁ」と思うのが、世間の流れです。

 

なぜ、名前の似た大学にクレームが?

なぜ、名前の似た大学のラグビー部にクレームが?

問題のプレー動画が注目を集めて、すぐ『DL選手はラフプレーの常連』としてネットにアップされました。でも、本当?

 

当該大学と名前の似ている大学は、全くもって別大学で、まったく無関係です。

ラグビーとアメフトは全くもって別競技ですし、無関係です。

『ラフプレーの常連』の動画は、選手の会見後削除されましたが、顔写真も名前も公開されていました。動画作成者の謝罪はあったのでしょうか。

 

「とりあえず、社会的に問題になってるから便乗するか?」という程度でのクレームなのでしょうか?

 

“何でもかんでも、取り合えず叩けば良い”

“自分たちの意にそぐわない意見は排除”

 

そんな世間の流れになっていませんか?

そんな世間に流されて判断していませんか?

 

ネット社会になった昨今は、世間は様々な情報が多く流れています。

ウソの情報 感情操作のための情報 情報操作のための情報…

 

人は最初に耳にした情報を“正しい情報”という先入観を刷り込まれてしまいがちです。後から出てきた別情報は「言い訳」「開き直り」と受け取ることもあります。

 

もし、選手よりも先に指導者側、大学側が会見を開き「乖離が起きた」「私たちは言っていない」と言っていた場合…

連盟の検証の結果から処分の発表がされるまでの間、あの選手は、さらに酷い誹謗中傷に曝されていたのではないでしょうか。

もし、そのようになっていたら、世間の大多数が寄って集って、指示に従っただけかもしれない一人を追い詰めることになります。最悪、いのちを奪いかねない事になっていたかもしれません。

 

情報と先入観というのはとても恐ろしいものです。

まさに“空言・戯言”と“捉われ”です。

 

仏教を学び、仏教を軸として生きる私たちは、どう考えるべきなのでしょう?

行動を起こすならば、どう行動をとるべきなのでしょう?

世間に惑わされず、世間に流されず、一歩立ち止まって、冷静に考えてみて下さい。

 

世間の空言・戯言に惑わされず、流されず、捉われることなく…

南無阿弥陀仏

みのり会公開講座

来月12日に、千葉組の仏教婦人会みのり会の公開講座があります。

どなたでも参加できる会ですので奮ってご参加ください。

テーマ:「死ぬ苦しみからの解放」~幼い子どもたちに『親が死ぬこと』を伝える~

講師:種村健二朗師(西本願寺医師の会会員、武蔵野大学仏教文化研究所研究員、野村病院緩和ケア顧問)

日時:6月12日(火)13:30~16:00

会費 :無料

場所 :千葉県教育会館大ホール

(千葉市中央区中央4―13−10)

予約 :不要

*当日、直接会場にお越し下さい