浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

千葉組日記

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9月法話「願いを頂く時」

「願いを頂く時」

無量寺金山龍成

 みなさんはコンプレックスをお持ちですか?私は首にあるアザがコンプレックスでした。でした…と言うのもある出来事がきっかけでそうではなくなったからです。それは、小学生。ちょうど思春期の頃です。私はなぜ自分にだけアザがあるのかを思い悩んでいました。しかし、いくら悩んでもアザは消えることはありません。そんなある日のこと、私は母に思い切ってたずねました。「お母さんこの首のアザはなんであるの?」と。母は私の頭を優しくなでながら言いました。「それはあなたが生まれた時のアザよ。大丈夫…大丈夫よ」と。私を気遣っている母の気持ちとは裏腹に私は自分の思いが伝わっていないと心の中で苛いら立だっていました。そして、私は母に怒鳴り散らしました。「大丈夫じゃない!お母さんは、僕がどんなに悩んでいるかも知らないくせに。そもそも、お母さんがこんな風に産んだのだろ!」…と。母は私を抱きしめゆっくりと真剣に語りだしました。「あなたをお腹に授かった時お母さんは早くあなたに会いたい、命にかけても守らなきゃ。と思ったの。けれどお腹の中にいたあなたは、逆さまでへその緒が首に絡まっていたの。無事に産めるかわからなかったの。だから、水泳をしたり体操をしたりとあなたのためになると教えられたことは、すべてしたの。そして、最後はお医者さんの手を借りて、ようやく無事にあなたを授かることが出来たの。その生まれる時にアザがついたの。あなたにとっては、とてもつらいアザでしょうがお母さんにとってはあなたが無事にこの世にいのちを授かってくれた大切な証あかしなのよ。でも、あなたが苦しい思いをしていたことに気づけずにいて…ごめんね」と。

 母が、私のいのちに対してどのような願いを持っていたのかに気づかされた時、このアザの持つ意味が私の中で変わっていきました。それまで、アザは邪魔なものでしかありませんでした。しかし、母の願いを聞いてからは、大切な宝物になりました。アザがあるという事実は変わりませんが、そこには自分の力では到底見いだせない、大きな意味が与えられていました。

 「南無阿弥陀仏」の声には阿弥陀さまの大きな願いが込められています。「あなたのいのち決してむなしく終わらせることはしません。この私阿弥陀が必ず浄土に生まれさせ仏と仕上げます。」と。その願いを頂く時「間違いなく浄土に生まれる身なのですね。仏と成らさせていただくいのちなのですね」と味わせていただきます。生まれて来たこと、死んでいくことに何の意味も見いだせなかった人生に大きな意味を与えて下さいます。生きていく中で思いがけず様々な苦しみや悲しみに出会いますが、阿弥陀さまの願いを聞かせていただく時、それら全ての出来事に深い意味が与えられます。

8月法話

自力と他力

龍昌寺 石塚龍悠

8月になりプロ野球シーズンもそろそろ終盤戦に入ります。

今季のヤクルト・スワローズはセ・リーグワーストタイ記録となる16連敗を喫しました。連敗中、監督は自宅近くにある神社に参拝し家に戻ると今度は仏壇に線香を供えたそうです。でもチームは勝てない。監督は「両方にお願いしたのがまずかったのかな」と力のない冗談。

スポーツ選手には験を担ぐ方も多いそうですが、このときは藁をもつかむ気持ちだったのでしょう。困ったときに神仏にお祈りするというのはよく聞くことですが、それで試合に勝てるなら明治神宮野球場を本拠地とするヤクルトが1番強そうです。

この時期の野球放送には「自力優勝の可能性が消滅」というワードが出てきます。

規定の試合数を消化していき残り試合もわずかになると、あと何回負けると1位のチームに届かないのか計算できてしまうので、ひとつの勝敗の影響が大きく、そのたびに一喜一憂してしまうわけです。

自チームの優勝があやしくなると、今度は他のチームが負けて順位が落ちてくるしか優勝の可能性が残されていない、成り行きまかせの状態におちいります。

その際に使われるのが「他力本願」という言葉。ですがこれは誤用が定着して一般化してしまった、本来の意味とは異なる使われ方です。

私が龍谷大学の学生だった頃、ゼミの教授が「他力本願という言葉はあるが、自力本願という言葉ない」とおっしゃっていました。

「他力」というのは阿弥陀さまのはたらきのちから、「本願」というのは仏さまが誓われた約束のことです。自らの修行をもって悟りを得ようとする場合は単に「自力」といいます。

自力と他力の関係をあらわすインドのたとえ話に、猿の道と猫の道というものがあります。

猿の子供は母親(仏)にしがみついて(自力)運んでもらいますが、猫の子供(私たち)は

母親(仏)に首をくわえてもらって(他力)運んでもらいます。

しがみつくには手や足にちからを籠めて、離されまいと努力する必要がありますが、くわえてもらえば、ちからの弱い子供でも安心です。

親鸞聖人は『教行信証』に「他力といふは如来の本願力なり」【注釈版聖典第二版190頁】とお書きになられています。

阿弥陀さまが仏となられる前、法蔵菩薩であられたとき、私たちを救うために48の願い事・約束事をされました。他力本願というのは、この阿弥陀さま(他)の誓われた願いのちから(本願力)によって、間違いなく浄土に往生できることです。

応援している広島カープが、連敗続きでモヤモヤする。阿弥陀さまは、そんな煩悩をぬぐいきれない我が身をも救ってくださる。そのお慈悲に感謝をしつつ、日々のお念仏を申していきたいと思います。 

                              南無阿弥陀仏

7月法話

照光寺 脇本正範

余命宣告を受け闘病なさっておられたご門徒さんのご遺言があり、最後の一年間の様子をご法話にしてほしいという思いを引き継ぎましたので掲載します。

 全人的苦痛とは
 1.身体的苦痛
 2.心理的苦痛
 3.社会的苦痛
 4.スピリチュアルペイン
 1~4までの苦痛を緩和することを全人的苦痛といいます。
 お寺やお坊さんの役割は4番目のスピリチュアルペインに該当するそうです。スピリチュアルペインとは人生の意味・罪の意識・苦しみの意味・死の恐怖・価値観の変化・死生観に対する悩みに関するこころの痛みのことです。

今から3年前にそのご門徒さんに出会いました。火葬している時に余命宣告を受けて治らない状態だったことを知りました。終末期の緩和ケア病棟に通院するようになったのが1年前のことです。

 ご門徒さんは余命宣告を受けたときに死を受け入れることができずに不安や鬱状態に陥り激しい怖れと怒りのなか自死をしてしまいそうな状態まで追い詰められてしまったそうです。
 「このままだと死んでしまいそうだ」とお医者さまに助けを求め心療内科で心理的苦痛に関する痛みを緩和することになりました。
 同時に現役の銀行マンでしたから社会的な苦痛(仕事上の問題や家庭・経済的な問題)も生じていたとのことでした。
 抗がん剤の治療を続ける中でもご門徒さんが求めたものがもう一つあります。それが4番のスピリチュアルペインをどのように解決するかということでした。人生の意味や死生観、苦しみの意味を緩和するためにあらゆるお寺をインターネットで調べ上げて通うことができる浄土真宗のお寺を探し続けたそうです。

当時わたしはお寺のご法座で『浄土真宗の教えでは死が単純な終わりであるとは考えません。救済活動の主体(仏・如来)として新しいいのちの出発をする瞬間を往生といいます。また、浄土(真実・さとりそのもの)に生まれる(往相)と同時に残された者のところまで姿かたちを南無阿弥陀仏と転ぜられて還ってきます(還相)。
 それ故に亡き方々は「いつでもどこでもいっしょの仏様」と味わうことができるのです。また臨終を迎えるまでの間、日常生活で称える南無阿弥陀仏は仏になることが決まった証拠ですから「死後の心配」をする必要はありません。皆様お一人お一人が臨終を迎えたら往生即成仏。いつでもどこでもいっしょの仏様となって残された者の「いのち」に宿りその「いのち」に同化して私たちの人生をいつでもいっしょに歩み続けてくださいます』というご法話をしていました。
 死を目前にして「そうか。新しいいのちの出発をすることができるのだ」という思いを抱かれたご門徒さんのこころに真の安らぎが生み出されたに違いありません。
人生の意味や苦しみの意味が問われ自分で自分のことを救うことができそうにないときに「いのち」のよりどころとなるものを持つということは闘病する本人と見守るご家族の生活の質を向上させるためにも必要なことであると同時にお念仏のおいわれを聞き、南無阿弥陀仏と称えつつ過ごすということは「死が不安に満ちた闇黒の世界」ではなく「光に満ちた真実の安らぎの開けである」と転ぜられていくと味わうことができます。

限られた時間の中で南無阿弥陀仏と称えることのできるよろこびを噛み締めています。

みのり会公開講座

千葉組公開講座のご案内です。歎異抄について釈徹宗師をお迎えいたしましてお話を頂きます。一般の方にも公開されています。どうぞお越しください。

6月法話「心」

「 心 」

浄興寺住職 渡辺恒行

 先日、出先から帰宅途中に何となく思い付きで子ども達にドーナツを買って帰った。 帰宅した私が
「ドーナツ買って帰ったよ。食べんさい。」
というと、子ども達は喜んで飛んできて
「食べたい。食べたい。」
と騒いでいる。 私が
「はい、どうぞ」
とテーブルに広げたドーナツを見て、息子は突如
「食べない!」
と怒りだした。 私が
「なして?食べんの?」
と問うと、息子は怒り心頭で
「これはドーナツじゃない!」
という。 私が
「なして?これドーナツじゃろうが?」
というと、息子は
「これはドーナツじゃない。」
と目に涙を浮かべて訴えてくる。 私が訳が分からず
「なしてかいの?」
と問うてみると、息子は
「ドーナツは丸くて真ん中に穴があいているの!」
と・・・
「だから、これはドーナツじゃない。だから食べない!」
と・・・。
 今回、私が買って帰ったドーナツはネジネジ棒状のドーナツだった。
(その時にこの会話を聞きながら娘は2つ目のドーナツに手を伸ばしていた)
私が
「ええから、食べんさい。どうせ口に入れたら形はなくなるんじゃから。」
というと息子は
「嫌だ!絶対に食べなない。」
と言い張って涙を流している。実につまらん意地である。
  また、「これ」は「こういうもの」という固定概念だ。 ただ、それを息子本人も分かっている。 自分がつまらない意地を張ってしまった為に収拾が付かず、目に前にあるドーナツを自分で食べれなくしてしまっている。 しかし、引けないのである。
 我々の「心」は我々にもどうすることも出来ない。親鸞さまが何度も自ら書写し、関東の門弟に送られた『後世物語聞書』には、当時の念 仏者の悲痛な問いが記されている。
「かかるあさましき無智にのものも念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、その後ひとすぢに念仏すれども、まことしく、さもありぬべしとおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。」
(浅ましく何も知らない無智な私であっても、念仏をすれば極楽に往生できるとお聞きしましたので、それからというもの、ただ一筋に念仏を申してまいりました。しかし、私が本当に極楽往生が出来るとは、どうしても思う事ができません。私はどうしたらよいのでしょうか。)
「またあるひといはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとしひさしくなりゆけれども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろくなる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあらねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこそ候へ。」
(また、ある人が言いました。念仏を称えると、これまで犯してきた様々な罪が消えて、摂取の光明に照らされて、心が楽になると説かれていると聞きました。しかし、随分長い間、念仏してまいりましたが、三毒(欲望・怒り・愚かさ)の心ばかりが湧いてきて、私の心はいよいよ悪くなってきます。善い心など日々生じることもありません。
この様な事ですから、阿弥陀さまの願いを疑っているのではありませんが、私の心根の悪さを鑑みると、極楽往生など不可能だと思ってしまいます。)
 美しく綺麗な心など、私には有り得ないのであります。 我が心ながら、私には為す術がないのであります。 だから阿弥陀様さまは私の為に泣かれ、願われるのであります。
 亀井勝一郎は著書『愛の無常について』の中で
「十年ほど前、私がはじめて仏教に思いを凝らした時、入信すれば安心が得られる、心の動揺も止み、悟りが開かれる、と考えていたのもですが、親鸞に邂逅してこれは完全に破砕されました。人間として悟りを開くことなど、有り得べからざる事だというのです。」
「私は親鸞にこれを聞き、不安は不安のままに、罪の意識は罪の意識のままに、矛盾は矛盾のままに謝念が湧出してきたのであります。「私はあなたを慰めることが出来ない」親鸞はかく言っているように思われます。その言葉こそ私にとって最大の慰めとなるのです。」
 私は涙を目にいっぱい溜めて「食べない」という息子を見ながら、「アホやな~」という思いと同時に、たまらなく「愛おしい」と感じておりました。親さまである阿弥陀さまの眼差しの先には、どうしようもない私や息子、そして全ての衆生が居ると感じるのです。
                                    合  掌