浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

千葉組日記

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南ブロック連研スタート!

千葉の南ブロックの連続研修会が始まりました!

2年かけての研修会。第一回は西光寺でした。

各お寺さんの御門徒方の交流をはじめ、まずは顔合わせです。

<情報部>

10月法話「浄土真宗における修行とは」

浄土真宗における修行とは

光䑓寺 八田泰

浄土真宗に「修行」はあると思いますか?仏教=修行のイメージが強いのではないでしょうか。

修行と言うと、座禅や滝に打たれる・断食等をイメージするかと思います。これらは「自力(じりき)」と言って自分の力で日々の悩みや欲望等を乗り越えていく修行の一つです。真言宗や曹洞宗など日本仏教の殆どが自力の宗教です。

では浄土真宗はどうでしょうか。日々の悩み、欲望からは離れることは出来ず、満足に修行を達成することは出来ません。その私を見越して、私ではなく阿弥陀如来が修行を達成されたのです。これを「自力」ではなく「他力(たりき)」といいます。

では、阿弥陀如来が修行をしたから何もしなくてもいいのかと言われればそうではありません。阿弥陀如来がどうして我々をすくおうとされたのか、どのようにしておすくい下さるのか、そのおいわれを聞かせて頂くのです。

 簡単に言うと、お経を読むこと・法話を聞くこと・仏教等の勉強をすること等、仏教の教えに触れる事全てです。誰でも出来るものです。難しく考えず、ドンドンして貰いたいと思います。

その中でも、浄土真宗の中で阿弥陀如来のおいわれを聞かせて頂く重要なことは何でしょうか?「聴聞(ちょうもん)」です。聴聞とは仏教や浄土真宗の教えの話し(法話)を聞くことをいいます。皆さん方はもちろんですが、我々僧侶も聴聞が一番大事と言われています。私もいつも色々な人の法話を聞いています。また、手軽に始められるように、今回のようにインターネット等に法話などを掲載していたり、浄土真宗の教え等を掲載していたりします。こういったものを読むことも大事なことです。

御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)という言葉があります。この言葉は、浄土真宗の教えを信じている人は皆仲間であり、上下関係等もないと言う意味です。僧侶も皆さんも一緒です。一緒に聴聞し、一緒に浄土真宗の教えに触れ、一緒に悩みを解決しようとすることが浄土真宗です。皆さん方は悩みや迷い・疑問等を持っていると思います。それらを晴らすために色々な法話を聞いていると思います。我々は阿弥陀如来がどうして我々をすくおうとされたのか、どのようにしておすくい下さるのか、そのおいわれを法話しているのです。阿弥陀如来の話をするのが法話であります。難しくわかりづらい法話もあるかと思いますが、色々な方の法話を聞いていると、以前わからなかった事がわかるようになってきます。肩肘張らず、気楽な気持ちで法話に接して貰いたいと思います。皆さんと今後も一緒に聴聞して行きたいと思います。これからも聴聞という名の修行に励みましょう!!

9月法話「阿弥陀仏の慈悲のお心」

「阿弥陀仏の慈悲のお心」

天真寺副住職 西原龍哉

 

お経には、何が説かれているでしょうか。そこには、仏様になる教え、仏様の願いが説かれています。『仏説無量寿経』には、「一(いっ)切(さい)恐(く)懼(く) 為(い)作(さ)大(だい)安(あん)(一切(さい)の恐(く)懼(く)のために 大(だい)安(あん)を作(な)さん)」と示されます。ここには、生死の苦におののきおそれを抱いているすべての人々に、その苦悩を超えて、大いなるやすらぎの心を与えてあげたいという仏様の願いが込められています。

 

お釈迦様は、苦悩を超える道として、二つの道を示されます。一つは、理想的人格を示し、戒律を授け、煩悩を取り除き苦悩を超えていく道。もう一つは、煩(ぼん)悩(のう)具(ぐ)足(そく)の私が、そのままで救われていく道です。親鸞聖人は、20年間にわたる厳しい修行を通し、煩悩を取り除くことは出来ない、いや煩悩こそが我が本性であると見抜かれました。そんな愚かな私だからこそ、阿弥陀仏は私を目当てに「我に任せよ」「あなたを救う」と呼びかけ願いをかけて下さっているのです。阿弥陀仏の慈悲のお心から生まれたこの願いに、親鸞聖人は自らの道を求める中で出遇っていかれたのです。

 

先日買い物に行くと、幼い娘さんとその母親が歩いていました。母親が先を急いでいると、後ろをついて歩いていた娘さんが転んでしまいます。母親はしばらく気づかずにいましたが、振り返って倒れている娘を発見すると娘の方へ駆け寄ります。その間、娘はじっと母親を見つめています。母親が娘を抱きしめて「どこが痛いの」と聞くと、娘は「膝を怪我したの」と大声で泣き出しました。娘は怪我をした痛みから泣くのではなく、母親の安心感の中でこそ涙することができたのでしょう。もし母親が「何で転んだの、バカだね」と言っていたら、娘は涙を流すことができずに痛みに耐えていたかもしれません。そんな光景に、阿弥陀仏の慈悲のお心を思いました。

 

現代の競争社会を生き抜いていくためには、立ち止まることが許されません。苦しみ、悲しみ、人に言えない内面を隠しながら走り続け、いのちが疲弊していきます。そのヘトヘトになった私のいのちに、阿弥陀仏は条件をつけることなく、「南無阿弥陀仏」の六字のみ声となって届いて下さいます。涙を我慢して頑張ろうとする私に、辛いね、悲しいねと寄り添って下さいます。泣きたい時には泣いていいよ、いつでも私の胸の中にいるんだよ、あなたのいのちの居場所になろうというのが阿弥陀仏の慈悲のお心です。そのお心に出遇ってはじめて、ホッと立ち止まり、次の一歩を踏み出す力がわいてきます。

8月法話

 雲妙寺住職 大善文彦

 ニュースで「香港のディズニーランドが、開園1周年を迎えた」とながれていました。
 日本のディズニーランドは、昭和58年4月浦安に開園してから、今年で34年と聞きました。
 最近は行くことも無くなったディズニーランドですが、以前に、「スペースマウンテン」や「スプラッシュ・マウンテン」に乗ったことがありました。
 初めて乗るときは、気持ちがわくわく気分でしたが、いざ動き始めると前後左右に身体が揺れて早いスピードにびっくりした思い出があります。
 あの「ジェットコースター」自体はプログラムされた通りに動いているだけなのですが、私にすれば、その予想外の動きに圧倒されました。
 ジェットコースターの働きが、私の身体を動かします。

 阿弥陀仏の前身は法蔵菩薩という菩薩様でした。
その菩薩様は、「いのちあるもの全てをお覚りの仏にする」という誓いを立てられました。そのうえに、重ねて誓いを立てられました。
それは「どんな境涯にいるいのちにも、わたしの名前を聞かせます。それが出来ないうちは、私は菩薩の状態のままでおります」というものでした。
そして、その方法を時間をかけて考えられて修業に入られました。

 修業に入られた法蔵菩薩様、そのご修業は継続中か、それとも終了されたかというのが大きなポイントです。
 法蔵菩薩のご修業が終わった時点で、私の成仏は決定するからです。
 その法蔵菩薩が、阿弥陀仏に成仏し終わってから、すでに十劫という時間が経過しています。

 私は、そのことを耳に入れる事なく、過ごしてきたのが私のいのちの歴史でした。
この度の人間境涯で、そのことを聞きそびれたならば、また迷いの世界にもどらねばなりませんでした。

 わたしを、お覚りの仏にする仏様があらわれたのです。
 阿弥陀仏という、仏様の働きは『私の耳に「南無阿弥陀仏」と声の相で現れる』という特徴があります。
 のどを振るわせ口を動かさせ、「南無阿弥陀仏という名号」を出させて私の耳に声の相で現れます。

 これは、私が行う行為ですが、それをさせる働きが名号にはプログラムされています。
 それは、ジェットコースターの動きが、私の身体を前後左右上下に動かす如くに、全く阿弥陀仏の側の働きしか有りません。

7月法話「阿弥陀様の切ない願い」

阿弥陀様の切ない願い

            高林寺住職 菅原智之

 

□神戸大空襲と阿弥陀様

 

 本来阿弥陀如来は金色に輝くお姿の筈ですが、当寺の御本尊は黒いお姿です。

それには以下のような悲しい謂われがあるのでした。当寺へお越しになる前は、兵庫

県芦屋市の御本尊だったのです。

 

 1945年3月17日と6月5日、阪神地域は激しい空襲を受け、五大都市では最

悪の被害となりました。「ガラスのうさぎ」(野坂昭如作)はその悲劇を元に描かれて

います。8800余名が死亡し、15万人が負傷、焼失家屋15万戸。それは正に、

エゴとエゴがいがみ合いぶつかり合った末の悲劇でした。

 

 芦屋の御住職は阿弥陀様を地中に埋め、本堂は焼失するも難を逃れました。しかし

地表の熱で黒色化。

 阿弥陀様は地上の地獄絵を、人々の叫びと絶望と怨みと涙を、そして人間という存

在の悲しみを、その黒いお身体に刻みつけたのでした。

 

 縁あって前住職が譲り受け、松戸の当寺へお越しくださいました。そしていつまで

も「何処までもエゴを振り回す、煩悩愚足の凡夫を必ず救う」と、願いつづけおはた

らき続けてくださるお姿であります。

 

 

□エゴの方程式

 

 4月は北朝鮮とアメリカが一触即発。間合いをつめる米空母部隊。「ミサイルが飛

んで来るぞ!」と警報が鳴り「戦争はこうやって始まるのか」とさえ覚悟しました。

 結局人類の進歩とは、兵器のことだけだったのか…。「やられる前にやってしま

え」という意見についつい同調してしまうお互いではなかったでしょうか。それに

よって引きおこされる惨劇には目を瞑って。

 

 「我が身可愛さの煩悩」を抱えた我々は、究極的に「私の為に、あなたは犠牲に

なって…」という方程式から離れられません。悲しい我が姿です。

 

 

□宗教という理念

 

 仏教の平和観を、開祖お釈迦さま(紀元前460年頃~380年頃)の言葉から紐解

いてみます。

 

 すべての者は暴力におびえる

 すべての者にとって生命は愛おしい

 それがゆえに

 自分の身にひきくらべて

 殺してはならない

 殺さしめてはならない

           ―ダンマパッダ

 

 仏の教えが行き渡る所は「兵戈無用(ひょうがむよう)」

 兵士も武器も必要なく、抑止力も不要である

        ―無量寿経意訳

 

 でも現実世界は暴力が蔓延しています。「だから現実的に武器は必要であって、

『殺してはならない』や『兵戈無用』は所詮「建前」でしょうという」という思いが

無いと言ったら嘘になります。

 

 「建前」とは、家屋の建築で棟や梁などを組み立てること。

 社会に当てはめれば、その骨格となるのは理念である。(中略)

 安定した社会は、「平等」「自由」「正義」といった理念の上にしか成り立たない。

 「これを崩したら社会はもたない」という危機意識に裏打ちされていなければ「建

前」はもたない。

  だが、そういう意識の共有がおそろしく難しくなっている。

           哲学者 鷲田清一さんの言葉

 

「宗教という理念」。それを失うと、「我が身可愛さの煩悩」を抱える自我は必ず増

長します。「理性」も、その私から出でるものですから、基準値は簡単に上下し全く

当てになりません。そして自我がぶつかり合う悲劇を人類は繰り返してきました。

 

 

□お慈悲にお育てを戴く

 

 仏教では、傷つけあう世界を「娑婆(しゃば)=堪え忍ぶ世界」と呼びます。その

娑婆に住む私に届く救いの光。それは「全ての命は、お浄土へ生まれ仏となる尊きも

の」と「平等」にはたらく阿弥陀如来の願い。「南無阿弥陀仏」と、私の言葉に成っ

てくださった仏さま。自分の都合ばかりをまくし立てるこの口から出てくださいま

す。そしてそのまま私の耳へと届いてくださいます。「あなたを必ず救う」と。

 

 煩悩具足の私のために阿弥陀様の悲しみと救いのはたらきがあったと

そのお心を聞かせて戴くとき、大いなる温もりの中であったことが知らされます。そ

れに出遇うところに、育てられ、促され、「このままの私では駄目だ」と目覚めて行

く歩みが始まります。共に如来のお心を聴聞して参りましょう。   合掌