浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

03日

5月法話 浄土真宗の法事「仏法が大事」

浄土真宗の法事「仏法が大事」

 

見敬寺 塚田慧明

 

例年に比べて今年は桜が咲くのが遅かったような気がします。入学式を終えたこの時期

でもまだ散っていない桜の花が窓の外に見えております。

 私は、桜の花を見ているといつも思い出す相田みつをさんの詩があります。

 

美しい花を見た

美しい花は美しい枝についている

美しい枝は美しい幹についている

美しい幹は美しい根っこがささえているにちがいない

その根っこは見えない

その見えないところに大事な点がある

 

 美しい花は美しい枝に咲きます。美しい枝は立派な幹からでています。立派な幹にはし

っかりとした根があります。大地にしっかりと根をはっているからこそ風や雪にも耐え

られるのです。しっかりとした根がなかったら花を咲かすどころか樹自身も枯れてしま

います。その大事な根は地面に埋まっていて外からは全然見えませんが、この見えない

ところに一番大事な点がある・・・と相田みつをさんは仰せになられております。

 

 仏法をいただくということも、この根をはるのと同じことだと思います。とかく私た

ちは名誉や地位や権力といった目に見える表面だけを大切にしがちです。この目に見

える部分ではなく、目に見えない部分をおろそかにしてはいないだろうか。目に見え

ない部分、すなわち心の世界です。この心の世界を充実させていくことが仏法をいた

だくことではないかと思います。仏法という地面に心がしっかり根をはってこそ、

うるおいある人生が開けてくるのであります。

 

 お寺ではどうしても土曜・日曜に法事が集中してしまいます。段取りをする側は色々と

皆の都合を合わせるので仕方のない事なのですが、それをマネジメントする寺は皆が昼時を

希望するから大変です。それこそ土曜・日曜のお昼争奪戦です。早い人では一年前から法事

の予約をされる方もおられます。「12時に料理屋を予約したので法事の開式は11時にお願

いします・・」「料理屋のバスの迎えの時間が迫っているからお経も法話もなるべく短めに

お願いします・・」等々

 

 ご門徒の自宅で法事をお勤めしている時も、法話の最中にインターホンがなり「○○屋

です料理をお届けに来ました」となると施主がバタバタしはじめ法話どころではなくなっ

てしまいます。法事ではなく食事がメインになってしまっている現状が多々見受けられま

す。

 

 私たちは普段何気なく法事という言葉をつかっておりますが、法事という言葉は省略語

でして、法事の「法」は仏法の「法」であります。法事の「事」は大事の「事」というこ

とですから、すなわち「仏法を大事にしなさいよ」というのが法事という言葉の本来の意

味合いなのです。

 亡き人を偲び食事をするだけではなく、亡き人を偲ばせていただきながら私たち一人一人

が仏法をいただくために勤まるのが法事なのであります。

 法事の中心はあくまでもこの私です。亡き人をとおして私が学ばせていただかなければ

なりません。では一体亡くなった人から何を学ぱせていただくのか・・・?

 それは「この私も必ず死ぬぞ」ということです。どんなに医学が進歩しようとも、どん

なに科学が進歩しようとも、この世に生命(いのち)をいただいた以上、死亡率は100%

なのです。早かれ遅かれ骨になり遺影と一緒に祭壇に飾られることになるのです。そのこと

を踏まえて、その祭壇を前にして私たちは何を考え、何を学ばせていただくのか・‥

この私の生命(いのち)を見つめ直す場が、法事という仏事なのであります。あくまでも

食事は二の次でいいのです。

 

 人は亡くなると必ず残すものが二つあるといわれております。一つは骨、二つは思い出

です。どうせならいい思い出を残す人生を歩んだ方がいいと誰もが考えます。いい思い出

を残すためには、自らがうるおいある人生を送らなければなりません。

 仏法を学ばない人・聞かない人はひとたび逆境のふちにたたずむと、悲観し絶望してな

かなか立ち上がることが出来ずに生きるすべを失ってしまいます。

 ところが仏法を聞いている人は、困難に直面してもただいたずらに嘆き悲しむのではな

く、悩み・苦しみの中から逃げることなく、悩み・苦しみの中に阿弥陀如来という仏さま

に導かれて人生を歩むことが出来るのであります。「決して見捨てず救う」と誓いをたて

てくださっている仏さまが阿弥陀如来という仏さまなのです。

 

 阿弥陀如来という仏さまに全く興味などないかもしれませんが、私は興味がなくても仏

さまの方が私に興味を持ってくださっています。私のことを「放っておけないよ」と幼子を

見守る親のように私によりそっているのです・・・。

 「ああそうであったか、私のために働いてくださっている仏さまだったのか」といただ

けた時に、うるおいある新たな人生が開けてくるのです。