法話

小慈小悲もなき身

法光寺 隆康浩

 私事ですが、昨秋祖母と母が僅か10日程の間に立て続けに亡くなりました。

 長らくごく近い身内が亡くなる経験をしていなかった私にとって、続けての二人の死は衝撃そのものでした。何と辛いことだろう、何と悲しいことだろうと、苦しくて寂しくて、言葉にできない喪失感に襲われました。

 僧侶となり仕事を始めて間もなく、心に刻んだことがあります。それは葬儀や法事を決してルーティーンワークにしない、という想いでした。

 自坊に戻り働き始めて間もなく、追われるように法事や葬儀が続いた時期がありました。その時ふと「ああ忙しい。仕事が続いて本当に大変だ」と口に漏らしてしまったのです。

 それを近くで聞いていたご門徒さんが私にこう言いました。「それを言っては絶対にダメ。ご住職さんは一日に何件もある、一年で何十何百件もある法事の一つかもしれないけれど、私たちにとっては何年に一度しかない、生涯だって何度もない大事なご縁なの。だからその一回を大切にしてもらいたいのよ」。

 その通りでした。私にとっては幾つもある法事の一つだったかもしれませんが、その人その家族にとっては、その一回こそが一度きりとも言える、身近な人を想い返し、大切なみ教えに出逢わせていただく、かけがえのない貴重な場面だったのです。

 以来、人が亡くなることを日々の流れ作業のように絶対に見てはいけない、ご家族の悲しみや辛さにできるだけ寄り添いたい、と意識してきました。

 法事や葬儀に臨めば、なるべく参列者と言葉を交わし故人のことを伺い、ご遺影や思い出の写真をしっかり見つめ、ご家族の涙やお花入れの光景を心に焼き付けました。ご家族の悲しみや辛さに寄り添い、理解しようと心がけている、努力している。そんなおこがましい気持ちでいました。

 けれども、いざ自分がその場面に直面すると、そんな気持ちは一瞬で吹き飛びました。実感は、頭で想像していたことを遙かに超えていました。

 昨日まで側にいてくれた人が今日はもういない。人生を共に過ごしてきた人が目の前から消えてしまう。声が聞こえない、返事が返ってこない。何と悲しいことだろう、何と寂しいのだろう、辛い苦しい…。当たり前だったことが当たり前ではなかったのだと、打ちのめされるように気づきました。

 葬儀や法事に臨んでいる皆さまの気持ちを、自分なりに少しでも理解し寄り添ってきたつもりでしたが、実は全くできていなかった、いや同じ気持ちになることなど到底できないのだと、やっと気づきました。

 その時、真っ先に頭に思い浮かんだのが、親鸞聖人のお言葉でした。

 小慈小悲とは、自分の身に関わりのある者だけに起こす、人間の小さな思いやりの心です。しかし実際にはそれすらも持ち合わせていないのが、この私でありました。そんな自分が人々を安心させること、穏やかな境地に導くことなどできるわけがありません。

 だからこそ親鸞聖人は、大きな願いの船にすべての者を乗せて、苦悩の海を渡し安心の世界へと運んでくださる、阿弥陀さまのお救いにおまかせすることをお伝えくださったのです。

 祖母と母、二人の悲しみを縁として、あらためて大切な教えを聞かせていただくばかりと、味あわせていただきました。

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