法話

富士山と信仰

真栄寺 馬場弘道

💚 12月の法話  💚

 今年も残すところあと一ヵ月。皆さまはどのような一年だったでしょうか。私は、七月の末に富士山へ登ってきました。

 登り始めるとすぐに、下山してくる方々とすれ違いましたが、その中に白装束に金剛杖を持ち、首にはほら貝をぶら下げていた修験者の方々がいらっしゃいました。修験道は、日本古来の山岳信仰と密教などが習合(※)したもので、神々は仏の化身という教えがあり、修験者は欲や迷いを断ち切り心身が清らかになることを願い登ります。

 富士山は、今でこそ雄大で美しく世界遺産となっていますが、噴火していた昔は、あまりにも激しく噴き上げる火焔に、当時の人々は、怒る神の姿を重ねていました。富士山信仰は、その神を鎮めることへの遠くからの祈りが起源とされています。これを「遙拝(ようはい)」といい、遠く隔たったところから拝み、富士山を仰ぎ見て崇拝していました。静岡県富士宮市では、縄文時代中期の遙拝祭祀場跡が発掘されています。

 噴火活動が沈静化する平安時代後期になると富士山は修験道の道場となります。これを「登拝(とうはい)」といい、富士山の御神徳を拝しながら登山をしており、江戸時代には庶民にこの信仰が広がり、集団で登拝する「富士講」へと拡大していきました。そして登拝は現在に至るまで続いています。

 八合目にたどり着くと「太子館」という山小屋がありました。五合目から山頂までの中間に位置する標高約三.一〇〇mにある山小屋です。「太子館」という名前は、聖徳太子が馬に乗り富士山に登った時に休憩した場所がこの地であった、という伝説に由来しています。聖徳太子の一生を記述した『聖徳太子伝暦』(興福寺蔵)の中に「二十七歳(五九八年)の聖徳太子が、体が黒く足が白い馬に乗って富士山を飛び越え信濃に至った」という一節があり、その様子は、富士山が描かれた現存する最古の絵といわれる『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)に描かれています。その馬は「甲斐の黒駒」といい、馬にまたがった聖徳太子の絵や像も全国に残されています。

 聖徳太子は日本に仏教を取り入れ、その興隆に尽力された方です。
そのような聖徳太子を親鸞聖人は「和国の教主」(日本のお釈迦さま)と敬われていました。

 大慈救世聖徳皇 父のごとくにおはします
 大悲救世観世音 母のごとくにおはします

 久遠劫よりこの世まで あわれみましますしるしには
 仏智不思議につけしめて 善悪・浄穢もなかりけり

 和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし
 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ

『皇太子聖徳奉讃』

 幼い頃に両親と別れられた親鸞聖人は、聖徳太子を父のように、救世観音を母のようにお慕いし尊ばれました。そして、仏教を日本で広められた聖徳太子へのご恩は感謝し尽くすことができませんとおっしゃり、阿弥陀さまの、遠い昔から変わることなく、善人も悪人も浄心の者も穢悪な心をもつ者もわけへだてなく救うというはたらきをいただき、怠ることなく感謝の心をもってお念仏しましょう。とお伝えくださっています。
 この夏、富士山に登らせていただいて、改めて富士山と信仰、そしてそれは富士山の変化と共に日本の象徴として、現在も歩み続いているものだと実感しました。ちなみに、私は体力がたりずに本八合目(標高三.四〇〇m)で登頂を断念。次回はしっかりと体力をつけて山頂まで登りたいと思います。

                    合掌

※習合:さまざまな宗教の神々や教義などが合体したり融合すること。

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