浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

法話

9月法話「願いを頂く時」

「願いを頂く時」

無量寺金山龍成

 みなさんはコンプレックスをお持ちですか?私は首にあるアザがコンプレックスでした。でした…と言うのもある出来事がきっかけでそうではなくなったからです。それは、小学生。ちょうど思春期の頃です。私はなぜ自分にだけアザがあるのかを思い悩んでいました。しかし、いくら悩んでもアザは消えることはありません。そんなある日のこと、私は母に思い切ってたずねました。「お母さんこの首のアザはなんであるの?」と。母は私の頭を優しくなでながら言いました。「それはあなたが生まれた時のアザよ。大丈夫…大丈夫よ」と。私を気遣っている母の気持ちとは裏腹に私は自分の思いが伝わっていないと心の中で苛いら立だっていました。そして、私は母に怒鳴り散らしました。「大丈夫じゃない!お母さんは、僕がどんなに悩んでいるかも知らないくせに。そもそも、お母さんがこんな風に産んだのだろ!」…と。母は私を抱きしめゆっくりと真剣に語りだしました。「あなたをお腹に授かった時お母さんは早くあなたに会いたい、命にかけても守らなきゃ。と思ったの。けれどお腹の中にいたあなたは、逆さまでへその緒が首に絡まっていたの。無事に産めるかわからなかったの。だから、水泳をしたり体操をしたりとあなたのためになると教えられたことは、すべてしたの。そして、最後はお医者さんの手を借りて、ようやく無事にあなたを授かることが出来たの。その生まれる時にアザがついたの。あなたにとっては、とてもつらいアザでしょうがお母さんにとってはあなたが無事にこの世にいのちを授かってくれた大切な証あかしなのよ。でも、あなたが苦しい思いをしていたことに気づけずにいて…ごめんね」と。

 母が、私のいのちに対してどのような願いを持っていたのかに気づかされた時、このアザの持つ意味が私の中で変わっていきました。それまで、アザは邪魔なものでしかありませんでした。しかし、母の願いを聞いてからは、大切な宝物になりました。アザがあるという事実は変わりませんが、そこには自分の力では到底見いだせない、大きな意味が与えられていました。

 「南無阿弥陀仏」の声には阿弥陀さまの大きな願いが込められています。「あなたのいのち決してむなしく終わらせることはしません。この私阿弥陀が必ず浄土に生まれさせ仏と仕上げます。」と。その願いを頂く時「間違いなく浄土に生まれる身なのですね。仏と成らさせていただくいのちなのですね」と味わせていただきます。生まれて来たこと、死んでいくことに何の意味も見いだせなかった人生に大きな意味を与えて下さいます。生きていく中で思いがけず様々な苦しみや悲しみに出会いますが、阿弥陀さまの願いを聞かせていただく時、それら全ての出来事に深い意味が与えられます。

8月法話

自力と他力

龍昌寺 石塚龍悠

8月になりプロ野球シーズンもそろそろ終盤戦に入ります。

今季のヤクルト・スワローズはセ・リーグワーストタイ記録となる16連敗を喫しました。連敗中、監督は自宅近くにある神社に参拝し家に戻ると今度は仏壇に線香を供えたそうです。でもチームは勝てない。監督は「両方にお願いしたのがまずかったのかな」と力のない冗談。

スポーツ選手には験を担ぐ方も多いそうですが、このときは藁をもつかむ気持ちだったのでしょう。困ったときに神仏にお祈りするというのはよく聞くことですが、それで試合に勝てるなら明治神宮野球場を本拠地とするヤクルトが1番強そうです。

この時期の野球放送には「自力優勝の可能性が消滅」というワードが出てきます。

規定の試合数を消化していき残り試合もわずかになると、あと何回負けると1位のチームに届かないのか計算できてしまうので、ひとつの勝敗の影響が大きく、そのたびに一喜一憂してしまうわけです。

自チームの優勝があやしくなると、今度は他のチームが負けて順位が落ちてくるしか優勝の可能性が残されていない、成り行きまかせの状態におちいります。

その際に使われるのが「他力本願」という言葉。ですがこれは誤用が定着して一般化してしまった、本来の意味とは異なる使われ方です。

私が龍谷大学の学生だった頃、ゼミの教授が「他力本願という言葉はあるが、自力本願という言葉ない」とおっしゃっていました。

「他力」というのは阿弥陀さまのはたらきのちから、「本願」というのは仏さまが誓われた約束のことです。自らの修行をもって悟りを得ようとする場合は単に「自力」といいます。

自力と他力の関係をあらわすインドのたとえ話に、猿の道と猫の道というものがあります。

猿の子供は母親(仏)にしがみついて(自力)運んでもらいますが、猫の子供(私たち)は

母親(仏)に首をくわえてもらって(他力)運んでもらいます。

しがみつくには手や足にちからを籠めて、離されまいと努力する必要がありますが、くわえてもらえば、ちからの弱い子供でも安心です。

親鸞聖人は『教行信証』に「他力といふは如来の本願力なり」【注釈版聖典第二版190頁】とお書きになられています。

阿弥陀さまが仏となられる前、法蔵菩薩であられたとき、私たちを救うために48の願い事・約束事をされました。他力本願というのは、この阿弥陀さま(他)の誓われた願いのちから(本願力)によって、間違いなく浄土に往生できることです。

応援している広島カープが、連敗続きでモヤモヤする。阿弥陀さまは、そんな煩悩をぬぐいきれない我が身をも救ってくださる。そのお慈悲に感謝をしつつ、日々のお念仏を申していきたいと思います。 

                              南無阿弥陀仏

7月法話

照光寺 脇本正範

余命宣告を受け闘病なさっておられたご門徒さんのご遺言があり、最後の一年間の様子をご法話にしてほしいという思いを引き継ぎましたので掲載します。

 全人的苦痛とは
 1.身体的苦痛
 2.心理的苦痛
 3.社会的苦痛
 4.スピリチュアルペイン
 1~4までの苦痛を緩和することを全人的苦痛といいます。
 お寺やお坊さんの役割は4番目のスピリチュアルペインに該当するそうです。スピリチュアルペインとは人生の意味・罪の意識・苦しみの意味・死の恐怖・価値観の変化・死生観に対する悩みに関するこころの痛みのことです。

今から3年前にそのご門徒さんに出会いました。火葬している時に余命宣告を受けて治らない状態だったことを知りました。終末期の緩和ケア病棟に通院するようになったのが1年前のことです。

 ご門徒さんは余命宣告を受けたときに死を受け入れることができずに不安や鬱状態に陥り激しい怖れと怒りのなか自死をしてしまいそうな状態まで追い詰められてしまったそうです。
 「このままだと死んでしまいそうだ」とお医者さまに助けを求め心療内科で心理的苦痛に関する痛みを緩和することになりました。
 同時に現役の銀行マンでしたから社会的な苦痛(仕事上の問題や家庭・経済的な問題)も生じていたとのことでした。
 抗がん剤の治療を続ける中でもご門徒さんが求めたものがもう一つあります。それが4番のスピリチュアルペインをどのように解決するかということでした。人生の意味や死生観、苦しみの意味を緩和するためにあらゆるお寺をインターネットで調べ上げて通うことができる浄土真宗のお寺を探し続けたそうです。

当時わたしはお寺のご法座で『浄土真宗の教えでは死が単純な終わりであるとは考えません。救済活動の主体(仏・如来)として新しいいのちの出発をする瞬間を往生といいます。また、浄土(真実・さとりそのもの)に生まれる(往相)と同時に残された者のところまで姿かたちを南無阿弥陀仏と転ぜられて還ってきます(還相)。
 それ故に亡き方々は「いつでもどこでもいっしょの仏様」と味わうことができるのです。また臨終を迎えるまでの間、日常生活で称える南無阿弥陀仏は仏になることが決まった証拠ですから「死後の心配」をする必要はありません。皆様お一人お一人が臨終を迎えたら往生即成仏。いつでもどこでもいっしょの仏様となって残された者の「いのち」に宿りその「いのち」に同化して私たちの人生をいつでもいっしょに歩み続けてくださいます』というご法話をしていました。
 死を目前にして「そうか。新しいいのちの出発をすることができるのだ」という思いを抱かれたご門徒さんのこころに真の安らぎが生み出されたに違いありません。
人生の意味や苦しみの意味が問われ自分で自分のことを救うことができそうにないときに「いのち」のよりどころとなるものを持つということは闘病する本人と見守るご家族の生活の質を向上させるためにも必要なことであると同時にお念仏のおいわれを聞き、南無阿弥陀仏と称えつつ過ごすということは「死が不安に満ちた闇黒の世界」ではなく「光に満ちた真実の安らぎの開けである」と転ぜられていくと味わうことができます。

限られた時間の中で南無阿弥陀仏と称えることのできるよろこびを噛み締めています。

6月法話「心」

「 心 」

浄興寺住職 渡辺恒行

 先日、出先から帰宅途中に何となく思い付きで子ども達にドーナツを買って帰った。 帰宅した私が
「ドーナツ買って帰ったよ。食べんさい。」
というと、子ども達は喜んで飛んできて
「食べたい。食べたい。」
と騒いでいる。 私が
「はい、どうぞ」
とテーブルに広げたドーナツを見て、息子は突如
「食べない!」
と怒りだした。 私が
「なして?食べんの?」
と問うと、息子は怒り心頭で
「これはドーナツじゃない!」
という。 私が
「なして?これドーナツじゃろうが?」
というと、息子は
「これはドーナツじゃない。」
と目に涙を浮かべて訴えてくる。 私が訳が分からず
「なしてかいの?」
と問うてみると、息子は
「ドーナツは丸くて真ん中に穴があいているの!」
と・・・
「だから、これはドーナツじゃない。だから食べない!」
と・・・。
 今回、私が買って帰ったドーナツはネジネジ棒状のドーナツだった。
(その時にこの会話を聞きながら娘は2つ目のドーナツに手を伸ばしていた)
私が
「ええから、食べんさい。どうせ口に入れたら形はなくなるんじゃから。」
というと息子は
「嫌だ!絶対に食べなない。」
と言い張って涙を流している。実につまらん意地である。
  また、「これ」は「こういうもの」という固定概念だ。 ただ、それを息子本人も分かっている。 自分がつまらない意地を張ってしまった為に収拾が付かず、目に前にあるドーナツを自分で食べれなくしてしまっている。 しかし、引けないのである。
 我々の「心」は我々にもどうすることも出来ない。親鸞さまが何度も自ら書写し、関東の門弟に送られた『後世物語聞書』には、当時の念 仏者の悲痛な問いが記されている。
「かかるあさましき無智にのものも念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、その後ひとすぢに念仏すれども、まことしく、さもありぬべしとおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。」
(浅ましく何も知らない無智な私であっても、念仏をすれば極楽に往生できるとお聞きしましたので、それからというもの、ただ一筋に念仏を申してまいりました。しかし、私が本当に極楽往生が出来るとは、どうしても思う事ができません。私はどうしたらよいのでしょうか。)
「またあるひといはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとしひさしくなりゆけれども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろくなる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあらねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこそ候へ。」
(また、ある人が言いました。念仏を称えると、これまで犯してきた様々な罪が消えて、摂取の光明に照らされて、心が楽になると説かれていると聞きました。しかし、随分長い間、念仏してまいりましたが、三毒(欲望・怒り・愚かさ)の心ばかりが湧いてきて、私の心はいよいよ悪くなってきます。善い心など日々生じることもありません。
この様な事ですから、阿弥陀さまの願いを疑っているのではありませんが、私の心根の悪さを鑑みると、極楽往生など不可能だと思ってしまいます。)
 美しく綺麗な心など、私には有り得ないのであります。 我が心ながら、私には為す術がないのであります。 だから阿弥陀様さまは私の為に泣かれ、願われるのであります。
 亀井勝一郎は著書『愛の無常について』の中で
「十年ほど前、私がはじめて仏教に思いを凝らした時、入信すれば安心が得られる、心の動揺も止み、悟りが開かれる、と考えていたのもですが、親鸞に邂逅してこれは完全に破砕されました。人間として悟りを開くことなど、有り得べからざる事だというのです。」
「私は親鸞にこれを聞き、不安は不安のままに、罪の意識は罪の意識のままに、矛盾は矛盾のままに謝念が湧出してきたのであります。「私はあなたを慰めることが出来ない」親鸞はかく言っているように思われます。その言葉こそ私にとって最大の慰めとなるのです。」
 私は涙を目にいっぱい溜めて「食べない」という息子を見ながら、「アホやな~」という思いと同時に、たまらなく「愛おしい」と感じておりました。親さまである阿弥陀さまの眼差しの先には、どうしようもない私や息子、そして全ての衆生が居ると感じるのです。
                                    合  掌

5月法話

雲妙寺 大善文彦

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位」という大きな節目を迎えました。

天皇陛下御退位 ご苦労様でした。

皇太子殿下天皇御即位 お祝い申し上げます。

国民そろってお祝いいたします。

さて 新元号が「令和」になりました。

何でもそうですが、新しい亊や物に変わった当初は、なかなか馴染みません。

しかし、次第に目に馴染み、手に馴染んで、いつしか違和感は薄れて来ます。

「令和」も耳に入り 口にし 読み書きをするうちに、自然と馴染んでくることでしょう。

私は「昭和」という時代に生まれました。

年齢を重ねるにつれて、姿や形 口にするものや思うことが、随分と変化してきました。

幼い頃は、苦い味の「ふきのとう」等は「ぺっ ぺっ」と吐き出していました。

それが「平成」に変わる頃には、コーヒーが飲めるようになり、「ふきのとう」が美味しく感じるようになり、ついには「アルコールの苦さ」までも「美味しい」と喉を通るようになりました。

そのように 私とは、時間とともに、コロコロと変わります。、

その私の側の条件・状況が、どれ程変化したとても、私を目当てとしたお方が変化せず、「おまえを救う まちがわさんぞ そのまま来いよ」と呼び続け、働き続けておられます。

一般仏教では、煩悩ぼんのうを断って覚りに向かう、という宗派しゅうはが多いです、が 浄土真宗じょうどしんしゅうにおいては、煩悩ぼんのうを断つこと無く、涅槃ねはん(お覚り)に至る。 それが大きなポイントです。

不断煩悩得涅槃ふだんぼんのうそくねはん」と、宗祖しゅうそ正信偈しょうしんげにお書きです。

その理由は、私の側のデレデレだらだらを、シャッキとさせるぞ、ということではなく、阿弥陀様あみださまの側が間違い無いからです。

阿弥陀仏あみだぶつとは、私の側に どのような煩悩ぼんのうという障壁があっても、それは妨げにはならない、問題にはならない、救いづらいことにはならないよ、と 別名の「尽十方無碍光如来じんじっぽうむげこうにょらい」と働かれています。

その阿弥陀仏あみだぶつ 既に私に入り満ちて、「南無阿弥陀仏なもあみだぶつ」と声の相で現れます。

4月法話「本願のかたじけなさよ」

『本願のかたじけなさよ』

弘教寺 小林 覚城

 浄土真宗の仏様は私が南無(帰依、信順)することまで仏の側で仕上げ、既に「南無阿弥陀仏」となって下さっています。私が仏を信じることまでも仏様のお仕事なのです。浄土真宗においては信じることは私の側の問題ではないのです。

「あなたはあなたのまま、そのままで良いのです」

…阿弥陀仏がそうおっしゃっておられます。

 この言葉を頂いて、私の心は安堵の思いで満たされます。

 御法話などで時々お聞きすることがありますが、この御文は私の調べた限りではいずれの経典に表されたものか分かりませんでした。

 ならば、経文そのものというよりは阿弥陀様の御心を私達にわかりやすく解説されたお言葉と頂くべきでありましょう。

「そのままで良い」とは文字通り「そのまま」です。

「なんだ、いろいろと悩んでいたけれど、私はこのままで良いんだ。悩まなくって良かったんだ」といった受けとめ方をされませんでしたか。

 それは、阿弥陀様の御心を「そのまま」頂いた姿ではありません。

「そのままで良い」とは文字通り「悩み苦しみを抱えたままのあなたで良い」ということです。

 ずいぶんとがっかりされたかも知れません。しかし、阿弥陀様の御心を伺えば「どうであっても、今のあなたのままで良い。そんなあなたをすくうよ」となるのです。

 私は私の思いで、物事を受け止めます。都合の良いように解釈するのです。

だから阿弥陀様は私の心は否定せず、汲んで下さいながらも、決して私の心を当てにはしません。「私は阿弥陀様を信じます」という私の心をも当てにされないのです。

 なぜ阿弥陀仏は私のすくいを約束されたのか。それは私が「それほどの業をもちける身」(歎異抄)だからです。「欲望も多く、 怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起こり、まさに命が終ろうとするそのときまで止まることなく、 消えることなく、 絶えることもない」(一念多念証文)存在だからです。そんな身の事実に気付かれ、おすくいを頂かれた親鸞聖人は「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(すくおうと御決意下さった御本願のなんともったいないことであろうか)」(歎異抄)とおっしゃいました。「煩悩具足の凡夫」(歎異抄)…私には煩悩しかないからです。

 阿弥陀仏は私の命、人生を全てお見抜きです。苦悩に沈む我、私は「楽しい生活」だけを求め、自身の苦悩に目を背け続けています。我のすくいになど興味を持っていません。苦悩の事実に気付こうともしない我という存在こそが、勿体なくも仏をして「この者を何とかしてやらねば…」とすくいのおはたらきへと駆り立てるのです。その大きなる御心を大慈悲心と申します。

 仏様の御慈悲は、我が煩悩、我が身の事実の中にこそ味わわせて頂きましょう。

 私の日々の苦悩を見抜かれたが故に、阿弥陀仏はおはたらき下さるのです。煩悩を捨てられず、煩悩故に苦しむ私です。煩悩の中にこそ存在して下さるのが御仏です。だから仏を頂く、仏に出遇えるのは正に私の苦悩の日暮らしにおいてなのです。

 「お願いだからすくわせておくれよ」とまで阿弥陀仏はおっしゃいます。私のすくいを間違いなく定めた上で…です。この私に、阿弥陀様は何とかしてすくいを告げたいと願われます。はたらかれます。お声の限りに私を呼び続けられます。

 「悩み苦しみを抱えたあなたこそが、心配でたまらない。そのままのあなたをすくう。必ずすくう。悩み苦しみの無い浄土の仏とせしめる」が阿弥陀様の大慈悲心です。

  どうにもならない私を、何としてでもすくう阿弥陀仏。

  唯々、仏様に御礼申しましょう。南無阿弥陀仏

3月法話「阿弥陀さまのあたたかさ」

「阿弥陀さまのあたたかさ」
 純心寺 曽我弘章

 愛しいものとの別れ、怨憎の人間関係、限りない欲望、貴賤貧富。孤独感、罪悪感。そして、老い、病、死・・・・・。
 「苦しみは、どうすれば消してなくすことができるのか」という問いに、「苦しみの原因を断ち切って、善い心を保ち、善い行いをし、自らの力で頑張りなさい」と教えられても、頑張れば頑張るほど自分の思い通りにいかない結果に打ちのめされ、反対に心が萎縮していくのが私たちです。

 私たちは、自己中心に物事を見ながら幸せを求めます。しかし、自分の思いどおりにならない現実に直面しては苦悩します。自分の力を頼りに生きていくということが、いかにむずかしいかを思わずにはいられません。

 『寒さにふるえた者ほど、太陽のあたたかさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど、いのちの尊さを知る』という詩人ウォルト・ホイットマン氏の言葉があります。
 罪の意識が強く悩み多い者ほど、「あなたのことは、私が一番わかっています。あなたはあなたのままでよいのです。大丈夫、私が助けます」と仰せられる阿弥陀さま(阿弥陀如来)の思い、あたたかなお心に気づくようです。

 ミッキー・マウスの産みの親で世界中の子どもに夢を与えたアメリカのアニメーション映画制作者ウォールト・ディズニー氏が、『ディズニーランド』を作り上げたときに、「この世の人の心に想像力がある限り、このディズニーランドは永遠に完成することはなく成長し続ける」と語りました。あれほど手のゆき届いたテーマパーク『ディズニーランド』は永遠に未完成のままだというのです。
 この話は、「私たちは苦しみから逃れられないこと、未完成であること、それは負ではなく自然なことなのだ」と認識するたとえのような気がします。

 親鸞聖人は、「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり(私たちは煩悩に眼がおおわれているため、救い取ってくださる阿弥陀さまのお働きの姿を見ることができませんが、阿弥陀さまは少しもおこたることなく、常に私を案じて照らしてくださっています)【高僧和讃】」と仰せられます。

 圓日成道師は、『仏さまの言葉は、「まぁゆっくりしておいで、そのままでいいんだよ」と聞こえてくる。するとその人は、元気が出てきて、「よーし」と、さらに歩みをはじめるのでしょうね』と申されます。

 未完成で生きる煩悩まみれの私ゆえに、「あなたのことは、私が一番わかっています。あなたはあなたのままでよいのです。大丈夫、私が助けます」というお心に、あたたかな光を感じます。

称名
                 

2月法話「童謡ぞうさん」

童謡「ぞうさん」

中原寺 平野俊斉

 我が家では大人が読む新聞とともに、子どもたちのために「小学生新聞」を購読しています。少しでも子どもたちに、世の中で起きていることに関心を持ってもらいたいという親心でありますが、実際には私たち夫婦のほうが熱心に読んでいることが多いです。「小学生新聞」といっても侮ることなかれ、ニュースに出てくる用語を分かりやすく解説してくれたり、子どもたちの間で流行しているものを紹介してくれたりするので、感心することも多々あります。

  先日の紙面において、童謡『ぞうさん』の歌詞について掲載されていました。冒頭の「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね」と話しかけているのは「象以外の生き物」です。鼻が長くないものが、自分とは違って鼻の長い象の子に悪口を言っているのだそうです。それに対して象の子は、しょげたり怒ったりすることなく「そうよ、かあさんも長いのよ」と返します。自分の大好きなお母さんと同じ姿でいることに喜びを感じ、誇りをもっていることが窺えます。

  作詞した、まどみちおさんはこの歌について「ぞうがぞうとして生かされていることが、すばらしいと思っている。だからこの歌は、ぞうに生まれてうれしいぞうの歌」と述べられています。象の子の返事から、自分が自分として生まれてきたことを引き受けた姿が見て取れます。決して他のものと比べることなく、ありのままの自分をそのままに受け止めて生きる姿が、そこにはあります。  

私たちは常に他者との比較のなかに自らを置き、ときに優越感に浸り、ときに劣等感に悩まされて生きています。自らが多数派にいることに安心を感じ、他者との違いにばかりに目を向け、相手をさげすんだり、非難ばかりしているのが私たちの姿ではないでしょうか。その姿はありのままの自分を、まず自分自身が大切に思い、喜びを感じている象の子とは真逆の姿です。比較のなかに生きる人生は、他者からも、そして自らにも大切にされない人生になってしまいます。  阿弥陀さまは、私のいのちを決して比べることなく、評価することなく、さばくことなく、そのままに受け止め抱きとってくださる仏さまです。この私を見捨てることがない仏さまによって、私が私のままに認められたのです。あみださまの「決してあなたの人生を空しいものとはしない」との願いとおはたらきのなかに私のこのいのちは包まれているのです。

1月法話「新しい年」

新しい年

真栄寺副住職 馬場弘道

明けましておめでとうございます。気づけば「平成」最後の新年、皆さまいかがでしょうお過ごしでしょうか。

毎年お正月を迎えると、思い浮かぶお言葉があります。

勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へ参りたるに、
蓮如上人仰せられ候、「道徳はいくつになるぞ。」

                  (蓮如上人御一代記聞書)

 明応二年(一四九三)の元日、蓮如上人が門弟の道徳さんに向かって語られたと伝えられています。弟子の道徳さんが、新年のご挨拶に蓮如上人を訪ねると、蓮如上人はいきなり、「道徳は何歳になったのだ、お念仏を申しなさい」と、お正月早々に厳しい言葉でおっしゃいました。

 新年を迎えると、私たちは当たり前のように「おめでとう、おめでとう」とお祝いの言葉を述べます。昔は誕生日ではなく新たな年を迎えて一つ年を取る習慣でした。一つ年を重ねる中に、蓮如上人は、「何が本当にめでたく、歳を重ねるということはどういうことか」を問われているのです。つまり、新年を迎へ歳を重ねるということは、いよいよ「生の意味、死の意味」をしっかり考えなければならない時期であることをさとされているのです。また、「いくつになるぞ」とのお言葉は、新年を迎え、今年もこのままの状態で続きたいと願っている私たちに、「いつまでも同じではない。だからこそ今を大切にしなければならないぞ」という問いかけでもあります。

 阿弥陀さまは今の私を、そのまま抱きとめて、決して捨てることはなく必ずお浄土へ導くと、おっしゃいました。そしてそのはたらきを、私たちのためにわかりやすく「南無阿弥陀仏」というお念仏にしてくださいました。

 新年にはご家族がそろわれることと思います。新年の挨拶に「お念仏申そうね」と、ひとことそえていただけると有り難く思います。おめでたい時、嬉しい時も、阿弥陀さまはご一緒です。新たな年の始まりをお念仏とともに迎えることは何よりも大きな喜びであります。本年もお念仏申す日暮らしを送らせていただきまましょう。           

       合掌

12月法話「揺さぶられる私です。」

揺さぶられる私です。   

本覚寺住職 小林則子

 

昨年の冬の事でした。大学受験を控えたお子さんの母親が血相変えてお墓参りに来ました。私は日頃の挨拶をしました。彼女は泡を吹く勢いでこの様な事を言いました。「息子が受験なんです。親はこれしか出来ないからこれだけに来ました。」と両手を顔の前ですり合わせる姿を見せました。私は「はー」というだけでした。すぐには意味が解らなかったのです。気になって彼女の後姿を見て居ました。手早く墓前を整えてしゃがみこんで手を合わせ、背中を丸めて祈る?おがむ?…とにかく一心不乱とはこのようなすがたを言うのかなとしばらく見つめていました。何を祈ったのか頼んだのか私には分かりません。折に触れては「加持祈祷や断食・茶絶ち等々しないのが浄土真宗ですよ」と伝えています。私の力不足を強く知らされた思いでした。

 

 私が10代の頃、お説教にいらしたお坊さんが次のようなお話をされました。「高校野球に出てくる生徒は色々な宗門校からも出てきています。それらの神さま、仏さまがみーんな願いを聞いて約束を守ってくれたらどうなるか・・・そうです。甲子園球場は大混乱で決着もつきませんね。」その日の本堂は、皆「あ!」という表情、そしてお念仏の大合唱となりました。それから半世紀も時が経ち、忘れていた事でしたが、ふと、その事が鮮明に思い出されました。

 

何かにすがりたい母親のすがたは時として私のすがたでした。一心不乱の故その時はそれしか見えないのです。もしわが子が大病に侵されていたら浄土真宗の教えを聞いているからと落ち着いていられたでしょうか。何時の時代も色々な祈祷や占いに心を揺さぶられる私たちですが、阿弥陀さまはそんな私たちをとうにお見通しです。

 

 仏さまに合格祈願や病気平癒をお願いしてしまうのは仏教の説く因果の道理からはずれています。

 

それでも目先の不安や不都合で心揺さぶられる私たちを阿弥陀さま側から大きな智慧とお慈悲のお心で願われているのです。