浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

法話

12月法話 生死一如

 

「生死一如」

浄土寺 藤田英範

 

先日、孫の祖父母会に出席しました際、園児達が何曲か歌を披露してくれました。

その中で、私自身何度も聞いたことのある「手のひらを太陽に」を歌ってくれました。

皆様も聞いたこと、歌ったことがあると思います。

「ぼくらはみんな生きている」から始まり

生きているから歌ったり、悲しんだり、笑ったり、喜んだり、踊ったり、愛したりする

んだと歌って、さらにミミズ、オケラ、アメンボ、トンボ、カエル、ミツバチ、スズメ、

イナゴ、カゲロウみんな、みんな生きているんだ、友達なんだと続く歌です。

 

私は今迄に何度もこの歌を聞いていたにも関わらず、あまり意に介さず聞き流し

ていましたが、今回この歌を聞いて、「生きている」ということを改めて考えさせら

れ「すばらしい」と感動しました。

皆様方は如何です。私が年をとったせいでしょうか?

私達はよく「死」を自分の周りから遠ざけ、「生」ばかりをおってしまいがちですが、

かと言って本当に「生」をしっかり見つめているでしょうか?

 

今日も明日も、明後日も生きている(=命がある)のは当然であり、改めて意識す

ることなしに毎日を過ごしていませんか?

現実的な面から見れば、私達は生きていくために、まずは当然ですが食べなけれ

ばなりません。食物(肉、魚、野菜等)を摂取することで肉体を維持することが出来

る訳ですが、これは他の物の命を奪って私達は生きるということであり、私達の生

と他の物の死が同時に成り立って生=殺ということになるのです。

さらに大自然から戴く空気、水、光それらのものを取り込むことによって命を支えて

生きているわけですが、それだけでも生きていけるものではありません。

人は、自分を取り囲む家族、そしてその周りの方々による直接、間接的にしろそれ

らの支えにより生きていく事が出来る存在なのです。

 

浄土真宗では食事の際に以下の言葉を唱和します。

食前の言葉

 ・多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。

 ・深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

食後の言葉

 ・尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。

 ・おかげで、ごちそうさまでした。

この言葉に言い尽くされているのではないでしょうか。

 

何かのきっかけで、自分の力だけを信頼して生きてきたつもりの自分の思いあが

りがひるがえされ、はじめて、全ての人々のお陰で生かされていた自分であった

と気付かされる時があります。

このように私達を取り巻く物、人の支えによって生きているということは、それらに

よって生かされている存在であるということであり、今ここに生かされている命を

見つめ感謝することは「死」を見つめることでもあるのです。

 

仏教では『生死一如』といって、生と死は表裏一体であって生と死を分断しないこ

との意味がここに込められているのです。

 

蓮如上人が白骨の御文章の中で「我やさき、人やさき、今日ともしらず、明日とも

しらず」とおっしゃっておられる通り。今日か明日かわからない大人も老人もそ

して子供も、今日を最後として生きているのです。

 

もう故人となられましたが、映画の評論家で有名な淀川長治さんという方をご存

知でしょうか?若い方達には馴染みがないかも知れませんが、この方は行き先

で自分が死んだ時に、まわりの人に迷惑をかけてはいけないという信念から、

どこかへ出かける時にはいつも、いくらかは知りませんが、それに相当するお金

を持ち歩いていたそうです。

「人間はいつどこで人生を終わるかわからないので、いつもその心構えをしてお

かなくてはならない」というのが口癖で一日一生の思いで生きておられたようです。

ある時友人が、貴方のように「いつ死ぬかわからない」などと何時も考えていたら

気持ちが暗くならないですか?と聞いたら、その時「いや、いつ終わるかもしれな

いと考えているから、何事にも全力投球ができ、いいかげんな生き方は出来ない

という思いが湧いて、毎日が充実し、明るく楽しく生きられる」といったそうです。

 

明治の先達清澤満之先生に「生のみがわれらにあらず、死もまたわれらなり」と

いう言葉がありますが、『生きている』と言うことは、正確には生死しているという

ことであり、何時どのようになってもこれで充分ですと言えるような生き方を自ら

に問いただすということが大切な意味をもってくるのです。

 

このような生き方を毎日思って生きていくということは難しいことですが、少しでも

この様な気持ちを持って、一日一日をすごして行きたいものです。

如何でしょうか?

自分の人生ですものね。                    南無阿弥陀仏

11月法話「お墓って怖くない?」

「お墓って怖くない?」

照願寺 高澤公一

 

夏になると海に近く都心からもそれほど離れていないロケーションの照願寺にも友人らが子供をつれて家族で遊びに来たりします。泊りがけで、海に遊びに行ったり、すいか割りをしたりと地元を楽しんでもらえるので毎年こころよくお迎えしております。そんななかでの会話で

「お墓って、こわくないの?」

と質問されました。

 

多くのお寺が、敷地内に墓地があり住居があります。照願寺でも本堂の間近に境内墓地があり、住居があります。その友人いわく、「お寺はありがたい場所だとは思うけど、住んでるすぐ近くにお墓があるのはなんだか不気味じゃない?幽霊とかでるんじゃないの?」と言われました。続けて「お坊さんって除霊とかできるんでしょ?」と

 

私は「私は幽霊に会ったことはないし、ここのお墓が怖いと思ったことはないよ。」

と答えます。

私自身は、ずいぶんこのお寺に滞在していますが、おばけや幽霊を見たことも感じたこともないし、そもそも除霊なんて能力を持ち合わせてはいません。しかし、それらが存在するとしたらなんだか怖いという気にもなります。世の中にはその手の情報があふれていて、古くからの書物にも普通に登場する存在です。静かな暗闇の中でなんでもない(物音や雰囲気)ことでも恐れや不安を抱いてしまいます。「何かいるのではないか」。まさに「疑心暗鬼を生ず」といったところでしょう。

 

ある先輩のお坊さんがこうおっしゃってました。

「お墓にはいるとしてもみんな仏様やろ?いっぱい見守ってくれててありがたいやないか」

 

たしかに、何かが存在がいたとしても、ここはお念仏を大事にし、このお寺を守り続けてきてくれたお家の方の代々のお骨があり、今生きているご家族が大事にしてくれている場所。阿弥陀様のはたらきにより間違いなくお浄土に往生されている仏様しかいないのではないでしょうか。

 

「いや、まちがいなく仏様やろ。」

そんな話をしていると友人は少しずつ納得した様子で、

 

「ありがたいんだねぇ。南無阿弥陀仏」

友人にとって、幽霊とは見知らぬ存在。知らないからこそ恐れたり怖がったりするのですが、照願寺を大切にしてくださった方々、仏様という気付きによって、ありがたい存在になったようです。これにとどまらず自分自身の中で確かな気付きをもつことにより不安だと思っていたことが解消されることが多いと思います。お墓というのは亡き方のお骨を納め、亡き方を偲びつつ、仏縁にあわせていただく大切な場所、お参りの際は、仏様を出遇ってください。

10月法話「浄土真宗における修行とは」

浄土真宗における修行とは

光䑓寺 八田泰

浄土真宗に「修行」はあると思いますか?仏教=修行のイメージが強いのではないでしょうか。

修行と言うと、座禅や滝に打たれる・断食等をイメージするかと思います。これらは「自力(じりき)」と言って自分の力で日々の悩みや欲望等を乗り越えていく修行の一つです。真言宗や曹洞宗など日本仏教の殆どが自力の宗教です。

では浄土真宗はどうでしょうか。日々の悩み、欲望からは離れることは出来ず、満足に修行を達成することは出来ません。その私を見越して、私ではなく阿弥陀如来が修行を達成されたのです。これを「自力」ではなく「他力(たりき)」といいます。

では、阿弥陀如来が修行をしたから何もしなくてもいいのかと言われればそうではありません。阿弥陀如来がどうして我々をすくおうとされたのか、どのようにしておすくい下さるのか、そのおいわれを聞かせて頂くのです。

 簡単に言うと、お経を読むこと・法話を聞くこと・仏教等の勉強をすること等、仏教の教えに触れる事全てです。誰でも出来るものです。難しく考えず、ドンドンして貰いたいと思います。

その中でも、浄土真宗の中で阿弥陀如来のおいわれを聞かせて頂く重要なことは何でしょうか?「聴聞(ちょうもん)」です。聴聞とは仏教や浄土真宗の教えの話し(法話)を聞くことをいいます。皆さん方はもちろんですが、我々僧侶も聴聞が一番大事と言われています。私もいつも色々な人の法話を聞いています。また、手軽に始められるように、今回のようにインターネット等に法話などを掲載していたり、浄土真宗の教え等を掲載していたりします。こういったものを読むことも大事なことです。

御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)という言葉があります。この言葉は、浄土真宗の教えを信じている人は皆仲間であり、上下関係等もないと言う意味です。僧侶も皆さんも一緒です。一緒に聴聞し、一緒に浄土真宗の教えに触れ、一緒に悩みを解決しようとすることが浄土真宗です。皆さん方は悩みや迷い・疑問等を持っていると思います。それらを晴らすために色々な法話を聞いていると思います。我々は阿弥陀如来がどうして我々をすくおうとされたのか、どのようにしておすくい下さるのか、そのおいわれを法話しているのです。阿弥陀如来の話をするのが法話であります。難しくわかりづらい法話もあるかと思いますが、色々な方の法話を聞いていると、以前わからなかった事がわかるようになってきます。肩肘張らず、気楽な気持ちで法話に接して貰いたいと思います。皆さんと今後も一緒に聴聞して行きたいと思います。これからも聴聞という名の修行に励みましょう!!

9月法話「阿弥陀仏の慈悲のお心」

「阿弥陀仏の慈悲のお心」

天真寺副住職 西原龍哉

 

お経には、何が説かれているでしょうか。そこには、仏様になる教え、仏様の願いが説かれています。『仏説無量寿経』には、「一(いっ)切(さい)恐(く)懼(く) 為(い)作(さ)大(だい)安(あん)(一切(さい)の恐(く)懼(く)のために 大(だい)安(あん)を作(な)さん)」と示されます。ここには、生死の苦におののきおそれを抱いているすべての人々に、その苦悩を超えて、大いなるやすらぎの心を与えてあげたいという仏様の願いが込められています。

 

お釈迦様は、苦悩を超える道として、二つの道を示されます。一つは、理想的人格を示し、戒律を授け、煩悩を取り除き苦悩を超えていく道。もう一つは、煩(ぼん)悩(のう)具(ぐ)足(そく)の私が、そのままで救われていく道です。親鸞聖人は、20年間にわたる厳しい修行を通し、煩悩を取り除くことは出来ない、いや煩悩こそが我が本性であると見抜かれました。そんな愚かな私だからこそ、阿弥陀仏は私を目当てに「我に任せよ」「あなたを救う」と呼びかけ願いをかけて下さっているのです。阿弥陀仏の慈悲のお心から生まれたこの願いに、親鸞聖人は自らの道を求める中で出遇っていかれたのです。

 

先日買い物に行くと、幼い娘さんとその母親が歩いていました。母親が先を急いでいると、後ろをついて歩いていた娘さんが転んでしまいます。母親はしばらく気づかずにいましたが、振り返って倒れている娘を発見すると娘の方へ駆け寄ります。その間、娘はじっと母親を見つめています。母親が娘を抱きしめて「どこが痛いの」と聞くと、娘は「膝を怪我したの」と大声で泣き出しました。娘は怪我をした痛みから泣くのではなく、母親の安心感の中でこそ涙することができたのでしょう。もし母親が「何で転んだの、バカだね」と言っていたら、娘は涙を流すことができずに痛みに耐えていたかもしれません。そんな光景に、阿弥陀仏の慈悲のお心を思いました。

 

現代の競争社会を生き抜いていくためには、立ち止まることが許されません。苦しみ、悲しみ、人に言えない内面を隠しながら走り続け、いのちが疲弊していきます。そのヘトヘトになった私のいのちに、阿弥陀仏は条件をつけることなく、「南無阿弥陀仏」の六字のみ声となって届いて下さいます。涙を我慢して頑張ろうとする私に、辛いね、悲しいねと寄り添って下さいます。泣きたい時には泣いていいよ、いつでも私の胸の中にいるんだよ、あなたのいのちの居場所になろうというのが阿弥陀仏の慈悲のお心です。そのお心に出遇ってはじめて、ホッと立ち止まり、次の一歩を踏み出す力がわいてきます。

8月法話

 雲妙寺住職 大善文彦

 ニュースで「香港のディズニーランドが、開園1周年を迎えた」とながれていました。
 日本のディズニーランドは、昭和58年4月浦安に開園してから、今年で34年と聞きました。
 最近は行くことも無くなったディズニーランドですが、以前に、「スペースマウンテン」や「スプラッシュ・マウンテン」に乗ったことがありました。
 初めて乗るときは、気持ちがわくわく気分でしたが、いざ動き始めると前後左右に身体が揺れて早いスピードにびっくりした思い出があります。
 あの「ジェットコースター」自体はプログラムされた通りに動いているだけなのですが、私にすれば、その予想外の動きに圧倒されました。
 ジェットコースターの働きが、私の身体を動かします。

 阿弥陀仏の前身は法蔵菩薩という菩薩様でした。
その菩薩様は、「いのちあるもの全てをお覚りの仏にする」という誓いを立てられました。そのうえに、重ねて誓いを立てられました。
それは「どんな境涯にいるいのちにも、わたしの名前を聞かせます。それが出来ないうちは、私は菩薩の状態のままでおります」というものでした。
そして、その方法を時間をかけて考えられて修業に入られました。

 修業に入られた法蔵菩薩様、そのご修業は継続中か、それとも終了されたかというのが大きなポイントです。
 法蔵菩薩のご修業が終わった時点で、私の成仏は決定するからです。
 その法蔵菩薩が、阿弥陀仏に成仏し終わってから、すでに十劫という時間が経過しています。

 私は、そのことを耳に入れる事なく、過ごしてきたのが私のいのちの歴史でした。
この度の人間境涯で、そのことを聞きそびれたならば、また迷いの世界にもどらねばなりませんでした。

 わたしを、お覚りの仏にする仏様があらわれたのです。
 阿弥陀仏という、仏様の働きは『私の耳に「南無阿弥陀仏」と声の相で現れる』という特徴があります。
 のどを振るわせ口を動かさせ、「南無阿弥陀仏という名号」を出させて私の耳に声の相で現れます。

 これは、私が行う行為ですが、それをさせる働きが名号にはプログラムされています。
 それは、ジェットコースターの動きが、私の身体を前後左右上下に動かす如くに、全く阿弥陀仏の側の働きしか有りません。

7月法話「阿弥陀様の切ない願い」

阿弥陀様の切ない願い

            高林寺住職 菅原智之

 

□神戸大空襲と阿弥陀様

 

 本来阿弥陀如来は金色に輝くお姿の筈ですが、当寺の御本尊は黒いお姿です。

それには以下のような悲しい謂われがあるのでした。当寺へお越しになる前は、兵庫

県芦屋市の御本尊だったのです。

 

 1945年3月17日と6月5日、阪神地域は激しい空襲を受け、五大都市では最

悪の被害となりました。「ガラスのうさぎ」(野坂昭如作)はその悲劇を元に描かれて

います。8800余名が死亡し、15万人が負傷、焼失家屋15万戸。それは正に、

エゴとエゴがいがみ合いぶつかり合った末の悲劇でした。

 

 芦屋の御住職は阿弥陀様を地中に埋め、本堂は焼失するも難を逃れました。しかし

地表の熱で黒色化。

 阿弥陀様は地上の地獄絵を、人々の叫びと絶望と怨みと涙を、そして人間という存

在の悲しみを、その黒いお身体に刻みつけたのでした。

 

 縁あって前住職が譲り受け、松戸の当寺へお越しくださいました。そしていつまで

も「何処までもエゴを振り回す、煩悩愚足の凡夫を必ず救う」と、願いつづけおはた

らき続けてくださるお姿であります。

 

 

□エゴの方程式

 

 4月は北朝鮮とアメリカが一触即発。間合いをつめる米空母部隊。「ミサイルが飛

んで来るぞ!」と警報が鳴り「戦争はこうやって始まるのか」とさえ覚悟しました。

 結局人類の進歩とは、兵器のことだけだったのか…。「やられる前にやってしま

え」という意見についつい同調してしまうお互いではなかったでしょうか。それに

よって引きおこされる惨劇には目を瞑って。

 

 「我が身可愛さの煩悩」を抱えた我々は、究極的に「私の為に、あなたは犠牲に

なって…」という方程式から離れられません。悲しい我が姿です。

 

 

□宗教という理念

 

 仏教の平和観を、開祖お釈迦さま(紀元前460年頃~380年頃)の言葉から紐解

いてみます。

 

 すべての者は暴力におびえる

 すべての者にとって生命は愛おしい

 それがゆえに

 自分の身にひきくらべて

 殺してはならない

 殺さしめてはならない

           ―ダンマパッダ

 

 仏の教えが行き渡る所は「兵戈無用(ひょうがむよう)」

 兵士も武器も必要なく、抑止力も不要である

        ―無量寿経意訳

 

 でも現実世界は暴力が蔓延しています。「だから現実的に武器は必要であって、

『殺してはならない』や『兵戈無用』は所詮「建前」でしょうという」という思いが

無いと言ったら嘘になります。

 

 「建前」とは、家屋の建築で棟や梁などを組み立てること。

 社会に当てはめれば、その骨格となるのは理念である。(中略)

 安定した社会は、「平等」「自由」「正義」といった理念の上にしか成り立たない。

 「これを崩したら社会はもたない」という危機意識に裏打ちされていなければ「建

前」はもたない。

  だが、そういう意識の共有がおそろしく難しくなっている。

           哲学者 鷲田清一さんの言葉

 

「宗教という理念」。それを失うと、「我が身可愛さの煩悩」を抱える自我は必ず増

長します。「理性」も、その私から出でるものですから、基準値は簡単に上下し全く

当てになりません。そして自我がぶつかり合う悲劇を人類は繰り返してきました。

 

 

□お慈悲にお育てを戴く

 

 仏教では、傷つけあう世界を「娑婆(しゃば)=堪え忍ぶ世界」と呼びます。その

娑婆に住む私に届く救いの光。それは「全ての命は、お浄土へ生まれ仏となる尊きも

の」と「平等」にはたらく阿弥陀如来の願い。「南無阿弥陀仏」と、私の言葉に成っ

てくださった仏さま。自分の都合ばかりをまくし立てるこの口から出てくださいま

す。そしてそのまま私の耳へと届いてくださいます。「あなたを必ず救う」と。

 

 煩悩具足の私のために阿弥陀様の悲しみと救いのはたらきがあったと

そのお心を聞かせて戴くとき、大いなる温もりの中であったことが知らされます。そ

れに出遇うところに、育てられ、促され、「このままの私では駄目だ」と目覚めて行

く歩みが始まります。共に如来のお心を聴聞して参りましょう。   合掌

 

6月法話「これさえあれば」

これさえあれば

照光寺住職 脇本正範

 

 私は、会社員の息子として生まれ、祖父が広島のお寺を営んでいます。社会人になり、浄土真宗のお坊さんになることを決めてからわたしにはいく場所もかえる場所もありませんでした。当時、祖父のお寺の本堂から見える境内の景色が大好きだったので何時間でも時間の許される限り縁側に座っていたものです。

 わたしはいつの日かどこかのお寺の住職になって「自分自身がそこにいてもいい場所」「そこに存在していても許される場所」をつくりたいと思いながら境内を眺めていました。また、誰かに「奪われたりしない」確かな場所を作るためにどんな道があるのか探し続けました。

 

 そのような日々のなかで新しくお寺をつくる仕事があることを知ります。中央仏教学院の特別授業でした。当初は挑戦する勇気がなかったのですが、菓子折りを一つ買って、築地本願寺の門をくぐり、都市開教対策本部と書かれている部屋のドアをノックしました。

 

ドアを開け自己紹介をします。

「備後教区世羅組照光寺の衆徒 脇本正範です。新しくお寺を作っていく仕事がしたくて参りました」と大きな声で挨拶しました。

 丸坊主の職員さんが来て「ここは少林寺ではないぞ」「何のアポもなしに来て採用されるはずがないやろ」とお叱りのお言葉を頂戴しました。

 それでも、いく場所もかえる場所もないわたしは必死になって「お願いします」と頼み込みました。

 「お前、おもろいな。話だけでも聞いたろ」

 都市開教という仕事に携わる四年前の話です。

都市開教とは「浄土真宗本願寺派のお寺のない地域に新しくお寺を作っていく仕事」です。何もないところから本堂を造りあげ門信徒数0人から「仲間」を増やしていく仕事はとてもやりがいがあると教えていただいたことを思い出します。

それから8年後、照光寺は新しく土地建物を購入するという目標を達成します。

落成慶讃法要で本堂に入堂するお坊さんの背中を見た時「この人がいてくれたからこそお寺ができたのだ」という思いで胸が一杯になりました。また、「この人がいなかったなら」と思った瞬間、涙が止まらなくなりました。

あなたにとってのこれさえあれば生きていけるものは何でしょう。

 大工さんであれば自分が使っている「大工道具」。この道具さえあればどこでも生きていけるという思いが生じるでしょう。

料理人であれば「包丁」と「料理の腕」でしょうか。「この包丁」と「料理の腕」があればどこでも生きていけるという思いになるに違いありません。どのような環境であっても世間で生きていくにあたって「わたし」にとって「これさえあれば生きていける」何かがあるはずです。

いく場所もかえる場所もなかった「わたし」にとって「これさえあれば」の「これ」は「お念仏」でした。どのような状況になったとしても「だいじょうぶ」この如来さまがいらっしゃるのだから「だいじょうぶ」と阿弥陀様はいつでも「わたし」といっしょに歩んでくださいました。これこれ、この如来さまがいるから「だいじょうぶ」だ。生きてもいけるし死んでもいける。

この念仏を味わえる場所として、習志野の地に照光寺を建立させていただきました。わたしにとって、ついにいく場所、帰る場所が定まったのです。

お世話になった「あの人」も大好きだった「この人」もみんな、わたしといっしょにこの人生を生き抜いてくださいます。みなさまの「これさえあれば」の「これ」はいったい何でしょう。行く場所も帰る場所もわたしが考えるよりも先に整えて、わたしたちの一生を阿弥陀様はともに歩んでくださいます。

5月法話 浄土真宗の法事「仏法が大事」

浄土真宗の法事「仏法が大事」

 

見敬寺 塚田慧明

 

例年に比べて今年は桜が咲くのが遅かったような気がします。入学式を終えたこの時期

でもまだ散っていない桜の花が窓の外に見えております。

 私は、桜の花を見ているといつも思い出す相田みつをさんの詩があります。

 

美しい花を見た

美しい花は美しい枝についている

美しい枝は美しい幹についている

美しい幹は美しい根っこがささえているにちがいない

その根っこは見えない

その見えないところに大事な点がある

 

 美しい花は美しい枝に咲きます。美しい枝は立派な幹からでています。立派な幹にはし

っかりとした根があります。大地にしっかりと根をはっているからこそ風や雪にも耐え

られるのです。しっかりとした根がなかったら花を咲かすどころか樹自身も枯れてしま

います。その大事な根は地面に埋まっていて外からは全然見えませんが、この見えない

ところに一番大事な点がある・・・と相田みつをさんは仰せになられております。

 

 仏法をいただくということも、この根をはるのと同じことだと思います。とかく私た

ちは名誉や地位や権力といった目に見える表面だけを大切にしがちです。この目に見

える部分ではなく、目に見えない部分をおろそかにしてはいないだろうか。目に見え

ない部分、すなわち心の世界です。この心の世界を充実させていくことが仏法をいた

だくことではないかと思います。仏法という地面に心がしっかり根をはってこそ、

うるおいある人生が開けてくるのであります。

 

 お寺ではどうしても土曜・日曜に法事が集中してしまいます。段取りをする側は色々と

皆の都合を合わせるので仕方のない事なのですが、それをマネジメントする寺は皆が昼時を

希望するから大変です。それこそ土曜・日曜のお昼争奪戦です。早い人では一年前から法事

の予約をされる方もおられます。「12時に料理屋を予約したので法事の開式は11時にお願

いします・・」「料理屋のバスの迎えの時間が迫っているからお経も法話もなるべく短めに

お願いします・・」等々

 

 ご門徒の自宅で法事をお勤めしている時も、法話の最中にインターホンがなり「○○屋

です料理をお届けに来ました」となると施主がバタバタしはじめ法話どころではなくなっ

てしまいます。法事ではなく食事がメインになってしまっている現状が多々見受けられま

す。

 

 私たちは普段何気なく法事という言葉をつかっておりますが、法事という言葉は省略語

でして、法事の「法」は仏法の「法」であります。法事の「事」は大事の「事」というこ

とですから、すなわち「仏法を大事にしなさいよ」というのが法事という言葉の本来の意

味合いなのです。

 亡き人を偲び食事をするだけではなく、亡き人を偲ばせていただきながら私たち一人一人

が仏法をいただくために勤まるのが法事なのであります。

 法事の中心はあくまでもこの私です。亡き人をとおして私が学ばせていただかなければ

なりません。では一体亡くなった人から何を学ぱせていただくのか・・・?

 それは「この私も必ず死ぬぞ」ということです。どんなに医学が進歩しようとも、どん

なに科学が進歩しようとも、この世に生命(いのち)をいただいた以上、死亡率は100%

なのです。早かれ遅かれ骨になり遺影と一緒に祭壇に飾られることになるのです。そのこと

を踏まえて、その祭壇を前にして私たちは何を考え、何を学ばせていただくのか・‥

この私の生命(いのち)を見つめ直す場が、法事という仏事なのであります。あくまでも

食事は二の次でいいのです。

 

 人は亡くなると必ず残すものが二つあるといわれております。一つは骨、二つは思い出

です。どうせならいい思い出を残す人生を歩んだ方がいいと誰もが考えます。いい思い出

を残すためには、自らがうるおいある人生を送らなければなりません。

 仏法を学ばない人・聞かない人はひとたび逆境のふちにたたずむと、悲観し絶望してな

かなか立ち上がることが出来ずに生きるすべを失ってしまいます。

 ところが仏法を聞いている人は、困難に直面してもただいたずらに嘆き悲しむのではな

く、悩み・苦しみの中から逃げることなく、悩み・苦しみの中に阿弥陀如来という仏さま

に導かれて人生を歩むことが出来るのであります。「決して見捨てず救う」と誓いをたて

てくださっている仏さまが阿弥陀如来という仏さまなのです。

 

 阿弥陀如来という仏さまに全く興味などないかもしれませんが、私は興味がなくても仏

さまの方が私に興味を持ってくださっています。私のことを「放っておけないよ」と幼子を

見守る親のように私によりそっているのです・・・。

 「ああそうであったか、私のために働いてくださっている仏さまだったのか」といただ

けた時に、うるおいある新たな人生が開けてくるのです。

4月法話「春はいろんな始まり」

春はいろんな始まり

本覚寺 小林智美

 

4月は始まりの月になることが多いですね。

年度はじめを今月にしていたり、入学式があったり。

実は、つい少し前まで学生だったと思っていましたが、もう、随分前の事でありました。

先輩方の「1年が早い」をだんだんと理解し始めたことに、驚いています。

 

さて、桜の花が今年も咲き始めました。

今年の桜を見る気持ちは、いつもと違う思いでおります。

と言いますのも、最近とてもお世話になったおじちゃんがお浄土へ往生されました。

人として命がある以上、避けられないのは知ってはおりますし、私もいつかは参らせていただくとは聞かせていただいておりました。

しかし、いざ、この縁がやってくるとどうでしょう。身近であればあるほどに色んな感情が湧き起りました。正直、こんなに自分がうろたえるとは思っていなかったのですが、言葉で表せないほど涙がたくさん出ておりました。

 

浄土真宗の教義は「この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」とありますので、おじちゃんはたった今、仏として活躍の真っ最中です。

しかし、それが私に直接見えていればよいのですが、見ること、触ることはできず、分からずにいます。

 

ご開山、親鸞聖人は正信偈の中で「大悲無倦常照我」と仰いました。

仏さまは「倦きことなく」常に私を照らして下さっている。「無倦」は、飽きてしまう「倦怠期」の倦ですから、「決してあきることなく、やめることなく」ということです。

 

たった今、おじちゃんは私にむけて光を照らしてくれている仏さまです。決して、「死んでお終い」でなく、私が煩悩に眼を覆われてわからなくても形を変えて仏さまとなって私に関わってくださっています。

春は、始まりの季節です。おじちゃんが仏となって初めて迎える春です。

ずっとずっと、お世話になり続けたおじちゃん、ここからまたお世話になってまいります。

大悲無倦常照我

おじちゃんがよく教えてくれた言葉でした。

親鸞聖人がお示しくださったこの言葉を通して、悲しみの別れだけではなかったのだと、改めて頂戴した次第です。  なもあみだぶつ。

3月法話「不可思議な世界」

「不可思議な世界」

 

大願寺 横田裕晃

 

先日、家族でディズニーランドに行ってきました。そこにはミッキーマウスというかわいらしいネズミのキャラクターが出迎えてくれました。

一日遊び、家に帰ってお風呂に入ると、子どもたちが「お父さんのおでこにもミッキーがいる」と言うのです。最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、私のおでこを見て、言っていました。そう、私のおでこの髪の毛の生え際が上がり、ミッキーの耳の形に見えたそうです。私のそれはミッキーほどかわいくないですが・・・

 私は好き好んでおでこをミッキーにしているのではありません。私の意志とは関係なしにミッキーになっているのです。私のおでこと思っていながら、私の思い通りにならない。はたして私のおでこなのでしょうか?私とは何なのでしょうか?

 皆さんは自分自身について考えたことはありませんか?自分の力でこの世に生まれてきたでしょうか。 「今から出ていくから待っててね」といって生まれてきた人はいないと思います。気がつけば私として生きていたのです。いいかえれば、自分で自分のいのちをつくった人は一人もいないと思います。もしできるのであれば、私はもっと身長を高くしたり、顔をかっこよくしたり、性格を良くしたりしたいものです。しかし、思い通りにならないのです。私のものだと思っているけれども、私の力、私の意志では思い通りにならないのです。それを仏教では我にあらず、「非我」「無我」というのです。

そして私は、自分の意思によらないでどんどん変わっていきます。これを「無常」というのです。無常というのは、常ではないということで、たえず変化するということです。私の意志によらないで、勝手にどんどん変わっていく、そうすると、これは自分の思うようにはなりません。思うようにならないこと、これを「苦」というのです。どんどん自分の意志に関わりなく変化をし、思うようにならない。そのような世界に私たちは存在しているのです。私たちはいったいなぜ存在しているのでしょうか。

阿弥陀如来という仏さまは、思うようにならずに苦しんでいる私を、思うようにならないことを思うようにしようとして苦しむ私をすくいたいと仏になられたのです。この阿弥陀如来のすくいのはたらきを親鸞聖人は「不可思議」と言われました。思議すべからざるはたらきにおいて、一切は存在するのです。私も、皆さんも、自分の意志でも、自分の力でもない、不可思議きわまるはたらきにおいてはじめて、いのちを与えられ、体を与えられ、心を与えられ生きているのです。不可思議なはたらきによって生かされているのです。そしてそれは、私一人のいのちがそうなのではなく、一切すべてのものが、不可思議なはたらきの中にいるのです。

 ディズニーランドは夢の世界ですが、われわれは不可思議な世界に生かされているのです。その不可思議なる世界にめざめて、我あり、我がものあり、我が力ありという、とらわれの心に気づき、あらゆるものを尊ぶ心を恵まれて、人間のもっている自分さえよければという我執を翻して生きよとはたらきかけられているのです。