浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

法話

5月法話 浄土真宗の法事「仏法が大事」

浄土真宗の法事「仏法が大事」

 

見敬寺 塚田慧明

 

例年に比べて今年は桜が咲くのが遅かったような気がします。入学式を終えたこの時期

でもまだ散っていない桜の花が窓の外に見えております。

 私は、桜の花を見ているといつも思い出す相田みつをさんの詩があります。

 

美しい花を見た

美しい花は美しい枝についている

美しい枝は美しい幹についている

美しい幹は美しい根っこがささえているにちがいない

その根っこは見えない

その見えないところに大事な点がある

 

 美しい花は美しい枝に咲きます。美しい枝は立派な幹からでています。立派な幹にはし

っかりとした根があります。大地にしっかりと根をはっているからこそ風や雪にも耐え

られるのです。しっかりとした根がなかったら花を咲かすどころか樹自身も枯れてしま

います。その大事な根は地面に埋まっていて外からは全然見えませんが、この見えない

ところに一番大事な点がある・・・と相田みつをさんは仰せになられております。

 

 仏法をいただくということも、この根をはるのと同じことだと思います。とかく私た

ちは名誉や地位や権力といった目に見える表面だけを大切にしがちです。この目に見

える部分ではなく、目に見えない部分をおろそかにしてはいないだろうか。目に見え

ない部分、すなわち心の世界です。この心の世界を充実させていくことが仏法をいた

だくことではないかと思います。仏法という地面に心がしっかり根をはってこそ、

うるおいある人生が開けてくるのであります。

 

 お寺ではどうしても土曜・日曜に法事が集中してしまいます。段取りをする側は色々と

皆の都合を合わせるので仕方のない事なのですが、それをマネジメントする寺は皆が昼時を

希望するから大変です。それこそ土曜・日曜のお昼争奪戦です。早い人では一年前から法事

の予約をされる方もおられます。「12時に料理屋を予約したので法事の開式は11時にお願

いします・・」「料理屋のバスの迎えの時間が迫っているからお経も法話もなるべく短めに

お願いします・・」等々

 

 ご門徒の自宅で法事をお勤めしている時も、法話の最中にインターホンがなり「○○屋

です料理をお届けに来ました」となると施主がバタバタしはじめ法話どころではなくなっ

てしまいます。法事ではなく食事がメインになってしまっている現状が多々見受けられま

す。

 

 私たちは普段何気なく法事という言葉をつかっておりますが、法事という言葉は省略語

でして、法事の「法」は仏法の「法」であります。法事の「事」は大事の「事」というこ

とですから、すなわち「仏法を大事にしなさいよ」というのが法事という言葉の本来の意

味合いなのです。

 亡き人を偲び食事をするだけではなく、亡き人を偲ばせていただきながら私たち一人一人

が仏法をいただくために勤まるのが法事なのであります。

 法事の中心はあくまでもこの私です。亡き人をとおして私が学ばせていただかなければ

なりません。では一体亡くなった人から何を学ぱせていただくのか・・・?

 それは「この私も必ず死ぬぞ」ということです。どんなに医学が進歩しようとも、どん

なに科学が進歩しようとも、この世に生命(いのち)をいただいた以上、死亡率は100%

なのです。早かれ遅かれ骨になり遺影と一緒に祭壇に飾られることになるのです。そのこと

を踏まえて、その祭壇を前にして私たちは何を考え、何を学ばせていただくのか・‥

この私の生命(いのち)を見つめ直す場が、法事という仏事なのであります。あくまでも

食事は二の次でいいのです。

 

 人は亡くなると必ず残すものが二つあるといわれております。一つは骨、二つは思い出

です。どうせならいい思い出を残す人生を歩んだ方がいいと誰もが考えます。いい思い出

を残すためには、自らがうるおいある人生を送らなければなりません。

 仏法を学ばない人・聞かない人はひとたび逆境のふちにたたずむと、悲観し絶望してな

かなか立ち上がることが出来ずに生きるすべを失ってしまいます。

 ところが仏法を聞いている人は、困難に直面してもただいたずらに嘆き悲しむのではな

く、悩み・苦しみの中から逃げることなく、悩み・苦しみの中に阿弥陀如来という仏さま

に導かれて人生を歩むことが出来るのであります。「決して見捨てず救う」と誓いをたて

てくださっている仏さまが阿弥陀如来という仏さまなのです。

 

 阿弥陀如来という仏さまに全く興味などないかもしれませんが、私は興味がなくても仏

さまの方が私に興味を持ってくださっています。私のことを「放っておけないよ」と幼子を

見守る親のように私によりそっているのです・・・。

 「ああそうであったか、私のために働いてくださっている仏さまだったのか」といただ

けた時に、うるおいある新たな人生が開けてくるのです。

4月法話「春はいろんな始まり」

春はいろんな始まり

本覚寺 小林智美

 

4月は始まりの月になることが多いですね。

年度はじめを今月にしていたり、入学式があったり。

実は、つい少し前まで学生だったと思っていましたが、もう、随分前の事でありました。

先輩方の「1年が早い」をだんだんと理解し始めたことに、驚いています。

 

さて、桜の花が今年も咲き始めました。

今年の桜を見る気持ちは、いつもと違う思いでおります。

と言いますのも、最近とてもお世話になったおじちゃんがお浄土へ往生されました。

人として命がある以上、避けられないのは知ってはおりますし、私もいつかは参らせていただくとは聞かせていただいておりました。

しかし、いざ、この縁がやってくるとどうでしょう。身近であればあるほどに色んな感情が湧き起りました。正直、こんなに自分がうろたえるとは思っていなかったのですが、言葉で表せないほど涙がたくさん出ておりました。

 

浄土真宗の教義は「この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」とありますので、おじちゃんはたった今、仏として活躍の真っ最中です。

しかし、それが私に直接見えていればよいのですが、見ること、触ることはできず、分からずにいます。

 

ご開山、親鸞聖人は正信偈の中で「大悲無倦常照我」と仰いました。

仏さまは「倦きことなく」常に私を照らして下さっている。「無倦」は、飽きてしまう「倦怠期」の倦ですから、「決してあきることなく、やめることなく」ということです。

 

たった今、おじちゃんは私にむけて光を照らしてくれている仏さまです。決して、「死んでお終い」でなく、私が煩悩に眼を覆われてわからなくても形を変えて仏さまとなって私に関わってくださっています。

春は、始まりの季節です。おじちゃんが仏となって初めて迎える春です。

ずっとずっと、お世話になり続けたおじちゃん、ここからまたお世話になってまいります。

大悲無倦常照我

おじちゃんがよく教えてくれた言葉でした。

親鸞聖人がお示しくださったこの言葉を通して、悲しみの別れだけではなかったのだと、改めて頂戴した次第です。  なもあみだぶつ。

3月法話「不可思議な世界」

「不可思議な世界」

 

大願寺 横田裕晃

 

先日、家族でディズニーランドに行ってきました。そこにはミッキーマウスというかわいらしいネズミのキャラクターが出迎えてくれました。

一日遊び、家に帰ってお風呂に入ると、子どもたちが「お父さんのおでこにもミッキーがいる」と言うのです。最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、私のおでこを見て、言っていました。そう、私のおでこの髪の毛の生え際が上がり、ミッキーの耳の形に見えたそうです。私のそれはミッキーほどかわいくないですが・・・

 私は好き好んでおでこをミッキーにしているのではありません。私の意志とは関係なしにミッキーになっているのです。私のおでこと思っていながら、私の思い通りにならない。はたして私のおでこなのでしょうか?私とは何なのでしょうか?

 皆さんは自分自身について考えたことはありませんか?自分の力でこの世に生まれてきたでしょうか。 「今から出ていくから待っててね」といって生まれてきた人はいないと思います。気がつけば私として生きていたのです。いいかえれば、自分で自分のいのちをつくった人は一人もいないと思います。もしできるのであれば、私はもっと身長を高くしたり、顔をかっこよくしたり、性格を良くしたりしたいものです。しかし、思い通りにならないのです。私のものだと思っているけれども、私の力、私の意志では思い通りにならないのです。それを仏教では我にあらず、「非我」「無我」というのです。

そして私は、自分の意思によらないでどんどん変わっていきます。これを「無常」というのです。無常というのは、常ではないということで、たえず変化するということです。私の意志によらないで、勝手にどんどん変わっていく、そうすると、これは自分の思うようにはなりません。思うようにならないこと、これを「苦」というのです。どんどん自分の意志に関わりなく変化をし、思うようにならない。そのような世界に私たちは存在しているのです。私たちはいったいなぜ存在しているのでしょうか。

阿弥陀如来という仏さまは、思うようにならずに苦しんでいる私を、思うようにならないことを思うようにしようとして苦しむ私をすくいたいと仏になられたのです。この阿弥陀如来のすくいのはたらきを親鸞聖人は「不可思議」と言われました。思議すべからざるはたらきにおいて、一切は存在するのです。私も、皆さんも、自分の意志でも、自分の力でもない、不可思議きわまるはたらきにおいてはじめて、いのちを与えられ、体を与えられ、心を与えられ生きているのです。不可思議なはたらきによって生かされているのです。そしてそれは、私一人のいのちがそうなのではなく、一切すべてのものが、不可思議なはたらきの中にいるのです。

 ディズニーランドは夢の世界ですが、われわれは不可思議な世界に生かされているのです。その不可思議なる世界にめざめて、我あり、我がものあり、我が力ありという、とらわれの心に気づき、あらゆるものを尊ぶ心を恵まれて、人間のもっている自分さえよければという我執を翻して生きよとはたらきかけられているのです。

2月法話 「誕生日」

「誕生日」

法光寺住職 隆康浩

 

 2月19日は、私の誕生日です。

 

 以前より親から聞いているところでは、本当は2月に生まれる予定ではなく、予定日は3月末から4月初頭だったそうです。ところが2月に入って大雪が降ったため、境内に積もった雪を母親が雪かきしていたところ、急に産気づいて予定より1月半早く私が生まれてしまったのだそうです。

 

 そのため生まれたときの体重は1700グラム余りしかなく、当時2500グラム以下の新生児は未熟児と言い、40日ほど「保育器」というガラスケースに入って育てられました。もちろん記憶など残っていませんが、当時の写真を見ると、ケースの中の赤ちゃんは本当に小さくて、これが自分なの?と驚くばかりです。

 

 親はとても心配したそうで、母の方が私より先に退院したので、毎日病院まで様子を見に来てくれました。「こんなに小さく生まれてしまって、この子は無事育つのだろうか?健康に大きくなってくれるだろうか?」そう思い、未熟児に関する本を買ってきて読んだそうです。その本によれば、未熟児の子どもも大体は問題なく成長しているし、中にはスポーツ選手になった人もいる、とのことでした。

 

 早くに生まれてまだ名前が決まっていなかったので、親は「そうだ、これだ。この子もおそらく大丈夫だとは思うけど、何はなくともとにかく健康に育ちますように」それだけを願って、名前に健康の「康」という字を入れたそうです。そんな経緯もあってか、元気に健康に育てよと、周囲から願われ支えられ生きてきたのは間違いないことだと思います。

 

 しかし、この誕生日に、親からかけられる釈然としない言葉が一つありました。それは、「誕生日は、みんなに御祝いしてもらう日じゃなくて、ここまで育てられたことをみんなに感謝する日ですよ」というもの。もちろん、家族にお祝いされなかった訳でもありませんが、「他の友達は、みんな家族から御祝いしてもらう日で、誕生パーティーを開く子もいるのに、なぜ自分だけは周りに感謝する日なのか!?」と、どこか心に引っかかってすっきりしない気持ちがあったのです。

 

 それから数十年が過ぎ、今では自分も親と同じ2人の男の子を持つ身となりました。以前、子どもが高熱を出して夜通し横について看病していた時、ふと思い出したことがあります。それは、自分も同じようなことがあったと聞かされていたことです。

 

 私が3才位の頃、40度近い高熱が続いたことがあり、親は心配して私に聞いたそうです。「大丈夫か?つらいか?」。その時私はこう言ったのだそうです。「もうダメかもしれない。死んじゃうかもしれない…」。その言葉に親はとにかくビックリして、大丈夫だとは思うけど本人が言うのだから万が一大変なことになってはいけない、そう思って夜通し必死で看病してくれたそうです。

 

 その時思いました。そうであったな。自分もこのような親のまなざしに見守られ育ってきたのだな。今自分がその立場になってあらためて気づかされます。いや、親だけではありません、様々な人々、様々な動植物、水や空気や大地や色々なものの中に、この私が育まれてきたことを忘れてはならないなと思うのです。そう考えると、今になってあの親からかけられた言葉が素直に受け止められるようになった気もします。

 

 浄土真宗の教えは、「南無阿弥陀仏」に尽きると申します。「南無」とは「まかせる」こと。「阿弥陀」とは「はかり知ることができない」ということ。はかり知ることができない無限の時間と空間の中に、たまたまご縁あってこのいのち恵まれ、様々なものの中に育まれて生きて、そしてこのいのち終わっても必ず引き取られていく安心の世界があるということ。この私も、はかり知れない色々なものの中に支えられ思われこのいのちがあったこと、そんな大きな世界の中に身をゆだねて自分らしく生きていくばかりと聞かせていただく時、ただただありがたいことであったなと感謝するばかりです。

 

 2年前、長男が10才になる誕生日、手紙を書きました。最近10才は、20才の半分だから「2分の1成人式」なるイベントをする地域や学校もあると聞きます。半分とはいえ、大人に近づく息子に何か伝えたいと思っていたときに思い返したのが、あの言葉でした。

 

 「誕生日は、みんなに御祝いしてもらう日じゃなくて、ここまで育てられたことをみんなに感謝する日ですよ」

 

 あれほど自分が釈然としなかった言葉を、まさか息子に伝えたいと思うようになるとは…不思議なものです。でも、それだけ大切な意味を持つ言葉だったと思いますし、その意味がこの歳になってやっと自分にも至り届いたのかもしれません。同時に、どれほど親がきちんと自分に向き合って伝えてくれた大事な言葉かと、今になると感謝するばかりです。

 

 その手紙を読んだ息子は「何のことやら!?」とキョトンとしていましたが、いつかまたその言葉の意味を自分自身で味わっていって欲しい。自分が大きな世界の中に包まれ生かされているいのちだということを、気づかせていただく時がきたら嬉しいなあと思っています。

 

 「お父さん、お母さん、みなさん、ありがとう!南無阿弥陀仏!!」

1月法話 迷信

  『迷信』

真光寺 正木 信明

 

先日のことです。私の後輩(30代前半)が新車を購入すると言うので、相談を受けました。突然、

『正木さん、お願いがあるのですが・・・新車登録にあたり車のナンバーを決めて頂きたい』

と話し始めました。私は思わず

『どうして僕に頼むの?愛車なのだから自分の好きな数字にしたら?』

と答えると、お坊さんに決めてもらえば事故やケガが起きない!と話すのです。そこで私は『それでは、自分の誕生日の数字にしたら?』

と言うと彼の誕生日は4月4日とのこと。

『№44じゃ最悪でしょう』

と言う。彼は4=死 と捉えているようでしたので、

『4と4を合わせて、しあわせ!と言う人もいるし、親からいただいた大切な命の誕生日が4月4日。おめでたい日じゃないか?』

と話すと急に笑顔になり

『そうですね。そう考えたら楽になりました。今回は№44にしてみます』

と言い、後日納車された新車のナンバーは本当に44になっていました。数字の考え方一つでこんなにも変化できるとは正直思ってもいませんでした。根拠のないものを信じなくて良かったね!お坊さんが数字を選んでも事故やケガは起きるときは起きるよ。安全運転をね!と二人で笑いました。

 

また、数年前のある朝の出来事です。私の娘が小学生の時、朝の占いのコーナーを見て

『今日は最悪だぁ』

としょんぼりしていたので、どうしたのか尋ねると

『私の星座(12/24生まれのやぎ座)が最下位の12位だから今日は良いことがない』

と話すのでした。

 夕飯時に娘に

『今日は学校で良いことあったか?』

と尋ねると満面の笑みを浮かべ

『聞いて聞いて~。今日ね、クラスの席替えがあって○○君の隣になったんだよ。もう最高!』

と喜んでました。○○君とは、娘が好きな男の子のことらしく、私が

『そんなに嬉しいことがあったのだから今朝のテレビで占いが最下位だったけど、あの占いは当たらなかったんだね』

と聞くと

『あんなの迷信、迷信!』

と笑いながら答えてました。

『自分にとって良いこと、悪いことはどんなときにでも急にやって来る。自分が良くたって中には悲しんでる友達もいることを忘れてはいけないよ。占いなどに振り回されないようにしないとね。』

と話しましたが、実際に娘が迷信の意味を理解しているとは思いませんが、今後の大きな一歩になると思いました。

 

このように私たちは、自分に起こってきた事柄を自分の都合に良い事と悪い事、大切な事と邪魔な事、そんなふうに分けています。自分に都合の悪い事は排除しようと考えながら生きてしまうことがあります。自分の都合に合うか合わないかというのは身勝手な判断に基づく分け方ではないでしょうか。そのような人間の身勝手さの深い闇を照らし、仏の智慧の光のはたらきを自らの拠り所としていくとき、どのような問題が起ころうとも、そのことに対しての好き嫌いを超えて、事実を真っ直ぐに受け止めて生きていけるのです。

 

私たちの日常生活の中には、昔からの言い伝えや占いや六曜などがあり、このような『迷信』に振り回されて生きていることに直面します。こういうものの考え方は私たちの生き方をどんどん窮屈にしてしまいます。逆に、そういうものに捉われず振り回されないことで自分の人生を精一杯輝かせて生きる道があるのです。その道を親鸞聖人はお念仏の道として示されています。『念仏者は無碍の一道なり』と。何物にも邪魔されることのない一途の道を歩むことが仏様の真(まこと)の心に目覚めた者の姿でしょう。

12月法話 「なんで?」を考える

「なんで?」を考える

中原寺 平野俊斉

 

12月8日は何の日かご存知でしょうか?1941年の真珠湾攻撃を真っ先に思われるかたもいらっしゃるでしょうし、ビートルズファンのかたはジョン・レノンの命日が頭に浮かぶことでしょう。しかし、私たち仏教徒としては「成道会」を忘れることはできません。

お釈迦さまは29歳で出家されて6年間にわたり、自ら肉体的にも精神的にも追いつめた苦行をされました。それでもさとりを開くことができなかったことから、苦行を捨て瞑想に入られ、ついにさとりを開かれたのが12月8日です。

 

お釈迦さまのさとられたこととの一つに、「縁起の真理」があります。

 

最近、5歳になる息子の口癖は「なんで?」。
  こちらが何を話しても、息子から返ってくる言葉が「なんで○○○なの?」ということが、しばしばあります。
   今年のある夏の日のお昼時のことです。息子がインスタントスープを飲んでいたので、私が「熱いから気をつけなさい」と注意したら、「なんであついの?」との返事。「お母さんがさっきお湯を入れてくれたからでしょう。」と説明すると、「なんでお湯いれたの?」。「スープ飲みたいって言ったからでしょ。」と言うと、自分が言ったにもかかわらずに「何でスープ飲みたいって言ったの?」とまた質問。この後、「お腹空いているから。」に「なんで僕はお腹すいてるの?」。「朝ご飯食べそこねたから。」に「なんで?」。「前の日にお寺の行事があって、夜遅くまで起きていて寝坊したから。」に「なんで?」と続き、「なんでお寺の行事したの?」、「なんでたくさんの人にお寺に来てほしいの?」「なんで親鸞さまの教えを知ってほしいの?」というところまで話が広がったところで、ようやく「なんで?」に飽きたのか、息子はスープを飲み始めました。
 そばで私と息子のやり取りを聞いていた娘が「スープの話から親鸞さまの話に繋がるなんてすごいね。」と驚いていました。
 息子が「なんで?」を続けていたら、どこまで話が広がっていたのだろうと考えると、何気ない日常のなかに、場所や時代を越えた「なんで?」の答えが存在していることが実感できます。

  「縁起の真理」とは、すべての事柄には必ず何らかの原因と条件があって生じ存在するという事です。ものごとの原因は必ずしも一つということはなく、様々な要因が重なって一つの結果を生むのですが、そこには私の思いも及ばないほどのご縁が幾重にも重なり合うことで、今ここに私の生活があります。

 私が今、お念仏を称えさせていただいていることも、計り知れない多くの人々が、それぞれの場所と時代で阿弥陀さまのお心を伝えてくださったからです。そのお心とは、この思い通りにならない人生において、頼りにならないものを頼りとし、迷い苦しみ続ける私に、「あなたの苦しみ、悩みをそのままにすべてを引き受け、決して見捨てることなく、ともにお浄土へと続く人生を歩む」との阿弥陀さまからのお喚び声です。

 

「なんで?」を繰り返すことで、当たり前だと思っていたことが実は有り難いことだと気づかされます。たまには「なんで?」を考えてみませんか?

11月法話 御同朋の野良猫

御同朋の野良猫

龍昌寺 石塚龍悠

 先日のことです。買いものから帰り自宅へ戻ろうと車を降りると、なにやら見慣 れぬ影が敷地と道路の境にうずくまっていました。見やるとそれは灰色の野良猫で、 じっとこちらをにらんで微動だにしません。通りがかった近所の方に話をうかがい ますと、どうやら朝からずっと居座っている様子。毛並みは使い古したタオルのよ うにゴワゴワでやせ細り、傍からみても衰弱しているのがわかります。

 さすがにそのまま放っておくわけにもいかず、お世話になっている市川市の動物 病院で診察していただくと、歯の状態から察するにおそらくは10歳前後だろうと のことでした。もとから野良だったのか、どこかの飼い猫だったのかは定かではあ りません。いずれにしても体力が回復するまで玄関先で面倒をみるつもりでしたが、 問題が1つありました。先に居着いていた黒い野良猫です。

 この黒猫は縄張り意識がとても強く、自分の縄張りに近づく猫はすべて追っかけ まわしてしまうため、家内で飼っている猫たちを外へ散歩に出すときは黒猫がいな いタイミングを見計らって、というありさまでした。灰色猫はケンカができるよう な状態ではないので、万が一の場合は家の中で飼うことも視野に入れていたのです が、結局その心配は杞憂におわりました。

 その日の夕方、ご飯をあげに玄関の扉をあけてみると、黒猫は灰色猫に餌皿のま えを陣取られても黙って見ています。灰色猫を見てなにか思うところがあったのか、 黒猫は威嚇するそぶりもみせずに灰色猫のそばに、じっとたたずんでいました。

 ときたま誤解されている方がいらっしゃるのですが、浄土真宗では僧侶とご門徒 さんの関係性は、師匠と弟子のようなものではありません。真宗を仰ぐものは皆、 阿弥陀さまの弟子としての道をともに歩む御同朋・御同行として等しく扱われます。 ご縁があって阿弥陀さまのはからいに気づくことのできた人がいたとして、あとか らやってきた人より優れているというわけではないのです。

 なぜなら阿弥陀さまは一切の衆生をお救いになるとはじめから誓っておられます ので順番は意味がありませんし、わたくしが浄土に往生できるのも自分の力ではな く阿弥陀さまの力によるものですので、したり顔をして偉ぶるというのも見当違い というものです。

 蓮如上人の御文章のなかには

(前略)故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつ れ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の 御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教 法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをを しへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。 これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。(後 略) 【注釈版聖典第二版 1083 頁・御文章一帖 1 条・門徒弟子の章】

という一節がございます。これによると、親鸞聖人は「自身の弟子は1人も持って はいない。なぜなら自らが悟りをひらいて得た教えを広めたわけではなく、ただ如 来の教えを代理人として広めただけにすぎないのだから、弟子と呼べるものを持つ だけの理由がない」とおっしゃっていたそうです。ですから浄土真宗の僧侶と門徒 の関係は「師匠と弟子」ではなくともに歩むもの「御同朋・御同行」として言いあ らわすのが良い、とこのお手紙には書かれています。

 我が家の黒猫の餌も決して自分の力でとったものではなく、家人から与えられて 得たものです。それを自らのものだと威張りちらして喧伝することなく、素直に味 わえるようになったのは、ひとえに灰色猫がもたらしてくれたご縁かもしれません。

南無阿弥陀仏

 

10月法話 報恩講をお迎えして・・・

報恩講をお迎えして…

弘教寺 小林覚城

 

 10月に入り、これから順次 組内(千葉県の)各寺院にて報恩講法要がお勤まりになることでしょう。宗祖親鸞聖人のご命日をご縁として、報恩の思いからお勤めさせて頂く、年間で最も大切な法要です。共々に御念仏申させて頂きましょう。

 南無阿弥陀仏のお念仏は私を必ず救うと誓われた阿弥陀様の喚び声であります。ただ、なかなか皆様お念仏を申しにくいようです。その理由として意味が良くわからないからとおっしゃるお方は、意味がわかるとますますお念仏申したくなくなるかも知れません。

この御念仏、『南無阿弥陀仏』の意味合いですが、『南無』とは「帰依する」の意味ですから、「阿弥陀仏に帰依します宣言」と申せます。 

 「なぜ私が阿弥陀仏とかいう、よくわからない仏様に帰依しなくてはいけないのか」…そんな思いが湧いてくるかも知れません。

 阿弥陀様に帰依せず生きるなら、どう生きますか? 「私は私を信じ、私を頼りとして、自分の人生を生きていくだけだ」と声高らかにおっしゃるお方もあるかも知れません。

 まさに『南無自分』宣言です。

 もちろん自分なりの夢や目標を持ち、それを叶えるために必死に努力する…そんな人生を否定するつもりはありません。

 ただ、今の自分は当てになりますか? これまでも当てに出来ましたか? 今後も当てになりますか?

 私は生身の人間です。

 だから生きていれば、自然に歳を取ります…老いていきます。身体は弱っていきます。今もこれからも病気も数多く得ていくことになるでしょう。そしていつか必ず死を迎えます。

 身体がそうなら、心もそうです。心は一定しません。ちょっとのことでふらふら揺れるし、ころころ変わるものです。だから私の悩み苦しみは無くなりません。悲しみや怒りも消えることがないのです。

 それでも、やはりこれからも自分を信じて生きていきますか…それは大変じゃないですか。辛くはないですか。

 仏様が念仏申してくれよとおっしゃるのは、何とかしてあなたをその苦しみから離れさせたい、すくいとりたいと願うからです。『「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏申さしめることによって、自身が「南無自分」の生き方、考え方に凝り固まっている事実に気付かせたい、そこから離れさせてやりたい』と思惟された(考え抜かれた)からです。

 この私をすくう為、悩み苦しみの一切無い、また老いること・死ぬことのない永遠の命、つまり仏に仕上げる為に我に恵まれたのが御念仏です。

 それでも念仏申さず、自分の思うように生きようとする私を仏はあきらめません。見放しません。なぜなら仏様は私を「視そなわすこと自己のごとし(まるで自分自身を見るように、さまざまな人々をみるのである)」(無量寿経)と御覧になっておられるからです。

 仏様からすれば、私の迷い・苦しみは他人事では無く、御自身にとっての問題なのだということです。仏様は同情から私をすくうのではなく、御自身の問題だからこそ私を放っておけないのでした。

 「仏心というは大慈悲これなり」(観無量寿経)

とにもかくにも私が心配で仕方が無くて、悩み苦しむ私に寄り添い、慈しんで下さるのが仏様です。私の為にそこまでなさって下さる仏様は、そこまでして頂かねばどうにもこの命生き抜いていけない、我の現実の姿を明らかにして下さっているのだと頂戴致します。

 そのような仏様の真実のおすくいを我に明らかにして下さったお方が宗祖(浄土真宗をお開きになられた)親鸞聖人です。

報恩講はそのご恩に報いる為の大切なご法要でした。共々に努めてお参りさせて頂きましょう。

9月法話 親さまの願い

親さまの願い

常敬寺 深栖正経

 

 「ご恩」という言葉を聞いて、なにを思い浮かべるでしょうか。一般的には「恩人」とか「恩師」というように、自分をはぐくみ育ててくださった人へのご恩のことと考えることが多いでしょう。

  仏教ではこの「恩」について、各種の仏典に「四恩(四つの恩)」が示されています。『心地観経』という経典では「父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝(仏法僧)の恩」があり、どの仏典にも共通するのが「父母の恩」です。 文字通り生まれてより長く成長を見守ってくれている両親への感謝の思い。その両親への感謝・孝行には3つの方法があります。

 1つ目は

 子どもの時に、病気や怪我をせずに健やかに成長すること。

 2つ目は

 子どもたちが成長してくると、今までは親に頼りっきりありましたが、それが自分自身でするようになる、できるようになってきます。しかしいくつになっても親に「伺い(うかがい)」をたてるということ。「伺い」をたてるということは、「敬う」ということです。今で言えば「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」。会社では当たり前のことですが、親子関係になってくるとなかなかできないものです。しかしいくつになっても、自分でできると思っても、やりたいと思っても、親に「伺い」を立てること「報告・連絡・相談」が難しく、大切なことであります。

 3つ目は

 親が先に逝き、残された息子さん娘さんがよく言われます。「生きているときに親孝行したかった。してあげたかった」。しかし別れても離れてもできる親孝行があります。それは兄弟姉妹が仲良くすること。そして1人1人残された子供たちが幸せな人生を歩むこと。これが別れてもできる、離れてもできる、最大の親孝行なのです。

 

 私には2人の娘がいますが、子どもたちが成長するにつれてこの私に色々なことをしてくれます。親として嬉しいことです。しかし親として一番嬉しいことは、親に色々としてくれることではなく、この子どもたちがよろこびのある人生を歩んでくれること、幸せな人生を歩んでくれることです。親である私のことよりも、子供のよろこびがそのまま親のよろこびになっていく、子供の幸せがそのまま親の幸せになっていくのです。

 

  昔から浄土真宗では阿弥陀さまを「親さま」と親しみをこめてよびます。それはいつも自分の事しか考えていない私を、あきらめず見捨てることなく私の命にかかりきりになってご心配くださっていることをお敬いの念から真(まこと)の親としてお味わいされたお言葉です。  

 阿弥陀さまは迷いの真っ只中にいる私たち衆生を仏となる身にさせることに、正覚のいのちをおかけくださいました。それは仏様から向けられた願いにそむき、迷いの中にいることすら気づけない私であることをお見通しの上で、いただくだけのものとして全てをお仕上げくださいました。その願いを父母を慕うがごとくお聞かせいただいた時、阿弥陀さまより呼びかけられ、願い続けられている私であったことに気づかされ、お念仏を申させていただく日暮しが恵まれてくるのです。

 

8月法話 自分を飾らない御法義

自分を飾らない御法義

西方寺 西原大地

 

 浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは、私たちに一切の条件をつけず、お前を救う親はここにおる、そのまま浄土へ参ってこいと仰せくださるお慈悲の仏さまであります。この簡単明瞭なご法義でありますが、お経には「難信の法」(大変人には難しく信じられない教え)とあります。その理由は、お浄土へ参るものとしてこのようにあらねばならないという私のはからいが、この法を難信たらしめるのでしょう。

 

学生時代の笑い話です。

 

 当時、スウェットのパンツというものが学生の間で流行りました。

友人の一人が、その流行のスタイルをまとい高級ブランド店に入店しようとすると、「大変申し訳ございませんが、お客様の服装は当店にはふさわしくありませんので」と入店を拒否されるということがありました。

 

 学生の私たちからするとオシャレなスウェットパンツであっても、店員さんから見ればただのパジャマだったのかも知れません。

高級ブランド店に限らず、私たちはパーティや祝賀会などいたるところで「その場にふさわしい格好」という常識をもっています。

 

 親鸞聖人御在世の頃、この常識をご法義に持ち込み、悩やまれた一人のお弟子さんがおりました。

唯円房といいます。

ある時、唯円房はお師匠である親鸞聖人にたずねます。

 

「念仏する身になったけれども、踊りあがって喜ぶ心も湧かなければ、急いでお浄土へ参りたいという心も起こって参りません。これはどう考えればよいでしょうか。」と。

 

 つまり、高級ブランド店に入店するにはそれなりの格好でなければならないのと同じように、阿弥陀如来のお浄土へ往き生まれるためには、それなりの格好(心持ち)でなければならないと考えたのでしょう。

普通の宗教なら「お前の信仰心が足りないからだ」と一喝されてもおかしくない場面です。

対して、親鸞聖人はどのように答えたのか。

 

「私、親鸞も同じような疑問をもっておったのだよ。唯円房、お前もか。」と、弟子を叱るでもなく「私も同じ悩みをかかえるものである」と唯円房の問いに頷かれます。

 

 そして、喜ぶべきものを喜べないのは煩悩のせいであり、だからこそ、阿弥陀如来という仏さまは私たちに一切の条件をつけず、そのまま救うと立ち上がってくださったのだと唯円房に語りかけるのでした。この唯円房の問いをとおして、私たちに「格好つける必要はないぞ、そのまま来い」と仰せくださる如来さまのお慈悲を味わうところであります。