7月法話「遺髪塚由来物語」
西光寺 吉弘一秀
今年は終戦から80年の節目の年です。数日早く戦争が終わっていれば、助かった命もたくさんあったことでしょう。昭和20年8月13日、終戦のわずか2日前、山梨県大月市で空襲がありました。旧制の都留高等女校では、勤労奉仕のため登校していた生徒たちが突然の爆撃に見舞われたのです。
校長の杉田先生は、生徒に「退避!」と呼びかける中、自身も爆撃に巻き込まれて気を失いました。意識を取り戻すと、周囲には瓦礫と亡骸が広がり、地獄のような光景でした。10数名の生徒が犠牲になったと報告を受けた校長は、生徒達の遺髪を集めて校舎を見下ろせる裏山の林宝山に埋葬したいと考えました。
林宝山には行願寺というお寺があります。住職に許可を願いました。
「ご住職、先日の空襲でうちの生徒も先生も犠牲になった。その子たちの遺髪を集めて、裏山に埋葬したいだ。あそこからは校舎も見下ろせる。許可をいただけないだろうか。」
「是非、ご協力をさせていただきましょう。」
「本当か、ありがたい。これで、あの子らの鎮魂となるだろう。皆も冥福を祈る場所ができるであろう。」
「杉田校長、実はですな、わが浄土真宗のみ教えは、鎮魂も冥福を祈る必要もないのです。阿弥陀仏は、苦しみ悩む我々をすくおうと誓われて仏となられました。阿弥陀仏のお慈悲は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といまここに届いております。みなに届いておられます故に、こちらから鎮魂も冥土の福も祈る必要はないのです。この命が終わったのちに仏へと生まれさせていただくのです。極楽に行ったきりではありません。また、迷い苦しむものの為にこの娑婆の世に戻ってくるのです。もし、遺髪を埋葬し、そのお墓が御仏の教えをきくご縁と成れば、この子たちは御仏のご縁となることでございましょう。」
「そうですか。まことにありがたい。南無阿弥陀仏。ご住職、その話を、遺髪を埋葬するときにみなにきかせていただけませんか。」
「わかりました。」
8月28日、学校で校葬を行い、その後林宝山に向かいました。
皆で阿弥陀経を読んだ後、住職が
「皆様、この度はまことに厳しいご縁でございました。いま、一緒に読んだ阿弥陀経はお釈迦様が祇園精舎で千二百五十人のお弟子さん達の前でお説きになられ、舎利弗というお弟子にひたすら話しかけるという形をとっています。そして、阿弥陀仏がこさえた極楽は西にある。なぜ西にあるのか。太陽の沈む方角、いのちの終わる方角、日が沈んだら夜になってお先真っ暗なのか、いや違うぞ、御仏の世界があるぞ、極楽に生まれさせてもらうということです。何故極楽というのか、もう苦しまなくてもいい、あらゆる苦しみがないんだ。だから極楽というのです。
この阿弥陀経の真ん中あたりにこのような言葉も出てきました。
又舎利弗・極楽国土・衆生生者・皆是阿鞞跋致・其中多有・一生補處・其数甚多・非是算数・所能知之・但可以無量無辺・阿僧祇劫説
また舎利弗よ、極楽浄土に生まれた人々は皆仏に成ることができる。その中には、迷いの世に還り、迷う人をすくおうとされる方がいる。その数は計り知れない
仏様になさせてもらったら、行きっぱなしではないのです。生きる方が大変なのです。悩み苦しむこの生きている者の為に戻ってくるのです。今こうして私たちがお参りさせてもらったのも、み仏のご縁です。そういただきますと、もう姿は見えず、犠牲となった方々でありますが、仏のご縁としてつながるのでございます。どうかどうか、御仏が今ここで働いておられる南無阿弥陀仏の念仏を大事にしてください」
と法話をされました。
それから毎年、8月13日に追悼法要を営み、10年後に石碑が建てられました。33回忌の時に、遺髪塚を整備し、現在にも残る形となったのです。山梨県は大月市にある遺髪塚由来のお話です。
*この法話は、一部会話部分等法話に仕立てるために筆者の想像で作成しています。