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法話

我やさき、人やさきと無常のいのち

常敬寺 深栖唯光

 人は、この世に縁あって、生まれると老いそして死んでいくものだとお釈迦さまは、おっしゃいました。

 5年前の事、親交のあったご門徒の方からこんな一本の電話がありました。

 受話器を取ってみると、住職と会いたいなと云う事でした。

 今どこに居るのと尋ねると病院です。

 今日は、身体の調子がとても良いので、電話をしました。

 どこの病院と尋ねると、40分位の所でありますので病院に行きました処、横たわりながらも元気よく私を迎えてくれました。

 雑談、30分位致しまして、元気な姿を見ることが出来ましたので、そろそろお疲れ様で生から失礼したいと思っていました処、まだ「帰るな」と止められ、さらに5分の延長となり、これで帰りますと、その時に、住職と握手したいとの事でありましたので握手を致しました処、こう云うんです。

 もしもの事があったら、「己、その事に、どこへ行くの」と聞かれましたので、お浄土ですよと、はっきり伝えました処、安心したのでしょうか、深く頷き、その病室を後に致しましたことであります。

 その時、車中で色々な事を思い出し、本当の事を伝えることができ、逢えて良かったと帰ったことであります。

 その後、奥さんから7日目の朝、今、主人が亡くなりましたと云う訃報が入り、突然のこと、私も驚きを隠せませんでした。

 奥さんは、末期のガンであったことを、先生からも告知され、本人もこのことを知っていたと思いますと、仰っていました。

 享年68歳の生涯であり、平成6年には21歳の長男を亡くし多難な人生で、ただただ、驚きとショックでありました。

 しかし、この現実をしっかりと受け止めていかなければならないと奥さんに伝えたことであります。

 人は何の為に、何処に向かって生きていったらよいのか。人々の永遠の課題ではないでしょうか。

 蓮如上人は、白骨章を拝読致しますと、朝には元気であった人が、夕べには、白骨となり、無常の風が吹けば、他人事ではありませんと仰せになっています。

 生きていることが無常であり、一寸先は闇であるともいまれますように老少不定(年齢ではない)と我やさき、人やさきと、お書きになっておりますが、私達は、老いていく、病み、そして死んでいくものであると云うことは、よく知っています。

 しかし、この私が、そうなることを正面から考えようとは致しません。

 現代人の多くは、経済に関心を持ち、損得勘定に心を費やし走り回っている現状かもしれません。

 又、豊かさと、快楽を求めて又、健康管理の為だけに目を奪われているかもしれません。

 私の「いのち」は未来、明日をも分からぬ無常の命です。無常の命であるならば限りある人生をどのように生きていくかが、問題となり、蓮如上人は、最後、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏申すべきものなりと、仰せになっています。

お念仏申しましょう

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