浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

5月法話「阿弥陀様と共に」

5月法話「阿弥陀様と共に」

阿弥陀様と共に

常圓寺 井上敬信

 

近くに住んでいる小学校2年生と5歳の甥っ子が時々うちにやって来てくれる。

 

本堂に入ってきてお座りし、「なあーまんだーぶ、なあーまんだーぶ」と笑いながらお念仏を称えていたことがあった。私の真似をしているのだ。本人たちは遊びの一環のようでふざけあっているが、私は大変ほほえましくその様子を見ていた。

 

 その時、ある布教使さんが次のような話をされたことを思い出しました。息子さんたちがテレビゲームで遊んでいた。時間制限があるのにそれをオーバーして遊んでいた。そろそろ怒らないといけないと思った時に、息子さんたちが父親の気配に気づき、いきなり「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を称えだした。子供たちはまだゲームをしたい。どうすればまだやめさせられないかと考えた時に、「そうだお念仏称えながらゲームをしていたら、やめさせられないかも。だってお父さんはいつも、お念仏を称えましょうってお寺で言っている」と思ったのだろう。迷う父親。どうしようか、お念仏を称えることは素晴らしいことだけど、ゲームをやめさせなくてはいけない。と考えていた時にたまたま通りかかったお祖父さんがボソッと「なんてお念仏って有難いのだろう。ゲームをやりたい子供のために口から現れてくださった」とこう言いました。

 

子供たちはまだゲームがしたいとの思いでお念仏を称えていた。しかしお祖父さんの受けとめは違っていた。子供たちの「お念仏すれば怒られないかも」という思いにあわせて、阿弥陀様の方が称えられるようにはたらいてくださったと受け止めたのである。

 

 親鸞聖人のお師匠様である法然聖人はこの南無阿弥陀仏の名号を勝易の二徳という言葉でお示しになっている。お念仏には勝(すぐれている)と易(やさしい)の二つの徳がある。

 勝れている点として「万徳の所帰」と示される。お念仏には阿弥陀様の功徳がすべて余すところなく備わっているということである。

お念仏を称えることを称名というが、唱えるという字を使わずに称の字を使っている。親鸞聖人は称の字にはかりという意味があるとお示しになる。はかりとは物の重さを知る道具である。左のものと右のものが一緒の時にはかりはその中心を指す。私の口から出て来るお念仏がそのまま阿弥陀様のはたらきそのものであることを称の字でお示しになられている。ただ唱えているだけではなく、阿弥陀様のはたらきそのものがお念仏になってあらわれてくださるのである。阿弥陀様はお内陣に鎮座しているのではなく、私の口を通してはたらいてくださるほとけさまなのであります。

 もう一つは誰にでもできるやさしい行である。仏教では瞑想したり、護摩を焚いたり、座禅をしたり、様々な行があるが、わずか六字の南無阿弥陀仏を称えることを行とされたのである。5歳の子供にもできる形にしてくださったのであります。

 

私たち生きるものすべてを見つめられて、どのようなものも救わずにはおれないと私たちにあわせた形が南無阿弥陀仏なのであります。この阿弥陀様のはたらきが今ちいさな甥っ子たちにはたらいてくださっている。もったいない、ありがたく思っております。

 

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