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法話

自力と他力

龍昌寺 石塚龍悠

 💚8月の法話💚 

8月になりプロ野球シーズンもそろそろ終盤戦に入ります。

今季のヤクルト・スワローズはセ・リーグワーストタイ記録となる16連敗を喫しました。連敗中、監督は自宅近くにある神社に参拝し家に戻ると今度は仏壇に線香を供えたそうです。でもチームは勝てない。監督は「両方にお願いしたのがまずかったのかな」と力のない冗談。

スポーツ選手には験を担ぐ方も多いそうですが、このときは藁をもつかむ気持ちだったのでしょう。困ったときに神仏にお祈りするというのはよく聞くことですが、それで試合に勝てるなら明治神宮野球場を本拠地とするヤクルトが1番強そうです。

この時期の野球放送には「自力優勝の可能性が消滅」というワードが出てきます。

規定の試合数を消化していき残り試合もわずかになると、あと何回負けると1位のチームに届かないのか計算できてしまうので、ひとつの勝敗の影響が大きく、そのたびに一喜一憂してしまうわけです。

自チームの優勝があやしくなると、今度は他のチームが負けて順位が落ちてくるしか優勝の可能性が残されていない、成り行きまかせの状態におちいります。

その際に使われるのが「他力本願」という言葉。ですがこれは誤用が定着して一般化してしまった、本来の意味とは異なる使われ方です。

私が龍谷大学の学生だった頃、ゼミの教授が「他力本願という言葉はあるが、自力本願という言葉ない」とおっしゃっていました。

「他力」というのは阿弥陀さまのはたらきのちから、「本願」というのは仏さまが誓われた約束のことです。自らの修行をもって悟りを得ようとする場合は単に「自力」といいます。

自力と他力の関係をあらわすインドのたとえ話に、猿の道と猫の道というものがあります。

猿の子供は母親(仏)にしがみついて(自力)運んでもらいますが、猫の子供(私たち)は

母親(仏)に首をくわえてもらって(他力)運んでもらいます。

しがみつくには手や足にちからを籠めて、離されまいと努力する必要がありますが、くわえてもらえば、ちからの弱い子供でも安心です。

親鸞聖人は『教行信証』に「他力といふは如来の本願力なり」【注釈版聖典第二版190頁】とお書きになられています。

阿弥陀さまが仏となられる前、法蔵菩薩であられたとき、私たちを救うために48の願い事・約束事をされました。他力本願というのは、この阿弥陀さま(他)の誓われた願いのちから(本願力)によって、間違いなく浄土に往生できることです。

応援している広島カープが、連敗続きでモヤモヤする。阿弥陀さまは、そんな煩悩をぬぐいきれない我が身をも救ってくださる。そのお慈悲に感謝をしつつ、日々のお念仏を申していきたいと思います。 

                             南無阿弥陀仏