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千葉組の歴史

高林寺衆徒 山本修

この稿は千葉組報ナーモに5回(1994~1999年)にわたって連載したものの転載です。

黎明期

関東は、宗祖が自ら教化に当たられた稀有の所であり、今日の真宗教団発祥の記念碑的な土地でもあります。そして、この原始教団の黎明は、そのまま千葉県における真宗の黎明でもありました。

千葉県でもその北部は、聖人が三年を過ごされた現茨城県の下妻市小島へ三〇キロ、一八年を過ごされた笠間市稲田へでも五〇キロの近距離に位置していました。利根川の流路等も今とは犬違いでしたし、後に分断されて茨城県側に行ってしまった結城・豊田・猿島・相馬の諸郡も、そのころは千葉県側の下総と同国だったのですから、聖人在住のあたりも身近に感じられたに違いありません。千葉県が聖人の教化に浴したのは、在関の一二一四年から一二三五年、聖人四二歳から六三歳にかけてのことです。本県には真宗の事跡が極めて少ないのですが、大胆な仮説を許されるなら、下総、とくに野田から関宿にかけての一帯は、直弟子を伴った聖人のわらじの跡が刻まれた所であるうと思われます。教線は常陸を中心に下野・陸奥と北東に延びましたから、南の上総には至らなかったようですが、ただ、教育庁植野英夫氏の指摘される長生郡長柄町の篠田家に、聖人及び覚如上人が、それぞれ廻国布教のときに置かれたという絵像等の所蔵されているのは看過できません。氏はこれを、一八世紀末まで茂原に存在した法得寺との関連において見ておられます。この寺の開基は聖人の直弟子、下総の性信と目されています。下総の直弟子は四、五人の名前が確認されていますが、中でも性信は関束教団きってのリーダー的存在だったのです。

房州に他力の念仏が届くのは、もっと後のことで、黒潮に乗った紀州からの念仏が上陸したりしますが、本県の真宗は、聖人在関時に下総を直撃した常陸方面からのルートを嚆矢としなければなりません。

在関期

親鸞聖人が稲田に来られたころの関東宗教界は、平安以来の天台・真言両宗が神道と共に全盛で、奈良仏教も命脈を保っていましたが、念仏の真空地帯というわけではなく、天台系の不断念仏が行われ、法然系の専修念仏も相模・武蔵・野州を中心に広まりつつありました。また、聖徳太子信仰や善光寺如来信仰のような民俗信仰も流布してきました。

聖人は、既存の宗派には対抗的な態度をとらず、民族宗教に対しても、その素地を生かした他力念仏の着化を図られました。

「聖徳太子和讃」や「善光寺如来和讃」はその名ごりでもあり、布教の場として太子堂や如来堂のような辻堂を利用されたりしたところにも、これらを伝道の媒体とした姿勢が、うかがわれます。

東国の真宗寺院が、聖徳太子を本尊としたり、境内に太子堂を設けたりしてきた歴史は、根強い太子信仰を摂取する形で発展を企図した初期教団のあり方と無関係ではありません。

東国教団の直弟は、五十人を数えますが、今でいう千葉県には一人も見当たりません。ただ、西念は本県に縁の深い直弟です。彼は武蔵国足立郡野田、現在の浦和市野田山にいたはずなのですが、その西念寺は全く痕跡を留めぬばかりか、現地には伝説すら残っていないのです。

ところが、現千葉県野田市上花輪太子堂には、彼の建立という西念寺(現長命寺)があり、近くには聖人とのゆかりを伝える明浄寺、鹿島社(現桜木神社)、お手植の菩提樹、緑なす観音堂等もあって、存在感十分なのです。

埼玉県北葛飾郡吉川町の清浄寺も元西念の道場と伝えられ、聖人の木像「おむく様」を擁しています。野田からは江戸川を渡らないと行けませんので遠く感じよすが、当時は地続きで、吉川町西側の古利根川まで下総国でしたから、野田の隣村にあったわけです。

西念関係の寺はこのほか、茨城県古河市宗願寺・岩井市西念寺、野田に程近い所、従って稲田と浦和を結ぶ線上に位置して、県北がこの高弟や聖人と深くかかかる土地であることを暗示しています。

中世

親鸞聖人が関東を去られた一二三五年ごろには、東国門徒の数は、数万に達していました。これらの人々は、各地に念仏者集団を形成していましたが、中でも横曽根・鹿島・大網・高田の四門徒は、力と独自性を具備していました。有力門徒のエリートたちは、法の直系としての自覚を持っていましたが、聖人の血の直系が、京都で本願寺の礎を築きましたので真宗教団の核とはなれませんでした。

聖人の血族であっても、東国に根を下ろした数人は、本願寺教団の主流から外れていました。

現・千葉県東葛飾郡関宿町中戸に常敬寺を開いた唯善もその一人です。彼は、れっきとした聖人の孫で、かつ聖人の直弟子唯円を師としましたので、血と法兼備の直系エリートとしての自負を抱いていましたが、確執の末に無念の涙を呑んで、このあずまに下って来たのです。唯円の世界的名著『歎異抄』が、永いあいだ日の目を見なかった謎は、少なくとも師弟関係であった唯円・唯善の線を視野に入れるとき、ゆっくり解け始めるように思われます。

常敬寺は、県内に稀な中世の真宗事跡ですが、江戸川の改修工事の底に、かつて関東七人寺を誇った広大な寺域を埋没して、往時の全貌をうかがい知ることはできません。寺宝アミダ如来の、天の逆手を打つ特異な合掌形態は、この寺の歴史を象徴するかのようですが、現在の寺号は、あの『歎異抄』を書写までした、蓮如上人から賜ったものなのです。

東国教団の有力門弟による活動は、南北朝時代ごろまでで、以後は、退潮の傾向すら見られ、次第に本願寺派に吸収される経過をたどりました。

戦国室町時代に入ると、本願寺教団は、蓮如上人の中興で爆発的な伸展を見ますが、それは、あくまで全国レペルでのことで、関東を揺り動かす出来事ではありませんでした。とりわけ千葉県の宗教界は、真言宗・大台宗の優勢が持続した上に、房州から出た日蓮と後続の高弟が活勤し、権力の庇護さえ加わって、日蓮宗が目がましい発展を遂げましたので、真宗は伸び悩みました。

近世

本願寺は石山戦争以来のあつれきで二分し、新政治都市江戸の別院も、お東は神田に、お西は浅草横山町に建立されました。道場の寺院化か盛んだったこともあって関東の寺院はふえましたが、将来の禍根にならぬようにという幕府の抑制策で房総の宗教地図に著しい変化はなく、真宗寺院は二十余りでした。幕府は政権を平和維持するために、中央集権的封建制度であらゆる面に統制を加えました。

キリシタン禁圧策としての檀家制度でも、人々をいずれかの寺院に所属させた上、諸届の受付や諸証明書の交付等、強力な公権力を寺院に与えて民衆支配の組織に組み入れ、宗教統制以上の統治的な目的を達したのです。

中世末には、支配者に対する民衆の思想的原動力となって教線を伸ばした真宗寺院も、封建政治の手先にされ、末寺の僧まで小役人化してしまったのです。これが後に寺僧の腐敗を招き、排仏論から廃仏毀釈に至る導火線にもなってゆくのです。しかし、支配統治は必ずしも徹底していませんでした。房総の治安は悪く、農民は「耕作に精励すべし」という幕府の命にもそっぽを向き、相つぐ不作に離農遊民化する人も少なくなかったのです。そして何よりも、従来は潜在的に行なわれていた間引き、つまり殺児の風習が日常的な現実に顕在化して町民や武士の層にまで蔓延し、農村の少子化過疎化による労働力不足は慢性的で、無人と化した村さえありました。房総の人口は近世を通して減少停滞を続けましたが、これは常陸・上野・下野でも顕著な亡国の様相でした。

常陸西念寺の良水らは、北陸農民に着目しました。蓮如上人の教化以来、北陸人の大半は真宗門徒で、間引きも全くありませんでしたから、村にも人が溢れていたのです。加賀・越中・越後の過密を和らげ、常陸の農地・農民を荒廃から救い、あわせて真宗の興隆をも企図した命がけの移民策は奏功し、起死回生の成果は下総・下野等にも及んで、今日まで続いています。平凡な真宗人が、人と社会を変革してきた非凡な歴史がそこにあるのです。

近代

明治維新が未曾有の転換期であったゆえんは、それが単なる政変でなく、奈良時代以来、国教的地位を維持してきた仏教が否定された、思想的宗教的ウーデターであった点にあるのです。日本の近代は、この法難が次第に国難として傷口を広げてゆく歴史でもあります。

新政府は、神社を国教の拠点として急造する一方、寺院・僧侶を削減して富国強兵を図りましたので、仏・神の地位は逆転したのです。廃仏毀釈は激化して、国宝級の仏閣・仏像・仏具類も大量に破壊されました。

こうした流れは、仏教側にも自らのおり方を模索する動きをもたらし、教団の改革に取り組んだ近角常観の『求道』や、仏教の自由独立を主張した高島米峯の『新仏教』を生みました。成東町出身の伊藤左千夫もこれらの運動に加わり文字面でも人心あやうきものと思い知り尊きみ名をせめて申すもと詠んだり、松戸市矢切が舞台の小説『野菊の墓』の作中人物に自分はあみだ様におすがり申して救うて頂くほかに助かる道はないと語らせたりして、血肉化しか信心を反映しています。

仏教側の抵抗はあったものの、皇室の神道化で国家権力化していた神道の神社は、全国民を氏子とし、児童・生徒・学生の参拝を義務づけました。日本主義で知られた東金小学校は全教室に神棚を設置し、皇国民練成の教育は県下全域に及んだのです。昭和一五年には、神武天皇伝説に基づく皇紀二六〇〇年を祝賀して世界制覇と戦勝が祈願され、仏教教団をも巻き込んだ神道国家の狂気は、敗戦へと暴走したのでした。

維新以上の転換期である戦後は、新しい宗教が都市化の波に乗って伸長しました。本県が祈祷仏教・難行仏教等、自力的仏教の地盤である状況は変わっていませんから、他力念仏のご宗旨は、新旧宗教の狭間で活動している形ですが、教団は、体質の近代化・活性化が注目され、今、蓮如上人五〇〇回遠忌法要を迎えています。(完)