浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

ブログ

組会

昨日、築地本願寺において組会が開かれました。

今年度の行事と予算が議決されました。

若手から積極的に発言が出るなど、風通しがいい千葉組です。

<情報部>

5月法話 浄土真宗の法事「仏法が大事」

浄土真宗の法事「仏法が大事」

 

見敬寺 塚田慧明

 

例年に比べて今年は桜が咲くのが遅かったような気がします。入学式を終えたこの時期

でもまだ散っていない桜の花が窓の外に見えております。

 私は、桜の花を見ているといつも思い出す相田みつをさんの詩があります。

 

美しい花を見た

美しい花は美しい枝についている

美しい枝は美しい幹についている

美しい幹は美しい根っこがささえているにちがいない

その根っこは見えない

その見えないところに大事な点がある

 

 美しい花は美しい枝に咲きます。美しい枝は立派な幹からでています。立派な幹にはし

っかりとした根があります。大地にしっかりと根をはっているからこそ風や雪にも耐え

られるのです。しっかりとした根がなかったら花を咲かすどころか樹自身も枯れてしま

います。その大事な根は地面に埋まっていて外からは全然見えませんが、この見えない

ところに一番大事な点がある・・・と相田みつをさんは仰せになられております。

 

 仏法をいただくということも、この根をはるのと同じことだと思います。とかく私た

ちは名誉や地位や権力といった目に見える表面だけを大切にしがちです。この目に見

える部分ではなく、目に見えない部分をおろそかにしてはいないだろうか。目に見え

ない部分、すなわち心の世界です。この心の世界を充実させていくことが仏法をいた

だくことではないかと思います。仏法という地面に心がしっかり根をはってこそ、

うるおいある人生が開けてくるのであります。

 

 お寺ではどうしても土曜・日曜に法事が集中してしまいます。段取りをする側は色々と

皆の都合を合わせるので仕方のない事なのですが、それをマネジメントする寺は皆が昼時を

希望するから大変です。それこそ土曜・日曜のお昼争奪戦です。早い人では一年前から法事

の予約をされる方もおられます。「12時に料理屋を予約したので法事の開式は11時にお願

いします・・」「料理屋のバスの迎えの時間が迫っているからお経も法話もなるべく短めに

お願いします・・」等々

 

 ご門徒の自宅で法事をお勤めしている時も、法話の最中にインターホンがなり「○○屋

です料理をお届けに来ました」となると施主がバタバタしはじめ法話どころではなくなっ

てしまいます。法事ではなく食事がメインになってしまっている現状が多々見受けられま

す。

 

 私たちは普段何気なく法事という言葉をつかっておりますが、法事という言葉は省略語

でして、法事の「法」は仏法の「法」であります。法事の「事」は大事の「事」というこ

とですから、すなわち「仏法を大事にしなさいよ」というのが法事という言葉の本来の意

味合いなのです。

 亡き人を偲び食事をするだけではなく、亡き人を偲ばせていただきながら私たち一人一人

が仏法をいただくために勤まるのが法事なのであります。

 法事の中心はあくまでもこの私です。亡き人をとおして私が学ばせていただかなければ

なりません。では一体亡くなった人から何を学ぱせていただくのか・・・?

 それは「この私も必ず死ぬぞ」ということです。どんなに医学が進歩しようとも、どん

なに科学が進歩しようとも、この世に生命(いのち)をいただいた以上、死亡率は100%

なのです。早かれ遅かれ骨になり遺影と一緒に祭壇に飾られることになるのです。そのこと

を踏まえて、その祭壇を前にして私たちは何を考え、何を学ばせていただくのか・‥

この私の生命(いのち)を見つめ直す場が、法事という仏事なのであります。あくまでも

食事は二の次でいいのです。

 

 人は亡くなると必ず残すものが二つあるといわれております。一つは骨、二つは思い出

です。どうせならいい思い出を残す人生を歩んだ方がいいと誰もが考えます。いい思い出

を残すためには、自らがうるおいある人生を送らなければなりません。

 仏法を学ばない人・聞かない人はひとたび逆境のふちにたたずむと、悲観し絶望してな

かなか立ち上がることが出来ずに生きるすべを失ってしまいます。

 ところが仏法を聞いている人は、困難に直面してもただいたずらに嘆き悲しむのではな

く、悩み・苦しみの中から逃げることなく、悩み・苦しみの中に阿弥陀如来という仏さま

に導かれて人生を歩むことが出来るのであります。「決して見捨てず救う」と誓いをたて

てくださっている仏さまが阿弥陀如来という仏さまなのです。

 

 阿弥陀如来という仏さまに全く興味などないかもしれませんが、私は興味がなくても仏

さまの方が私に興味を持ってくださっています。私のことを「放っておけないよ」と幼子を

見守る親のように私によりそっているのです・・・。

 「ああそうであったか、私のために働いてくださっている仏さまだったのか」といただ

けた時に、うるおいある新たな人生が開けてくるのです。

みのり会総会

20日、千葉県教育会館の一室で、みのり会(千葉組仏教婦人会)の総会及び役員研修会が開かれました。

総会で、今年度の行事・予算が決まり、研修会では、中原寺住職平野師を招いての研修会でした。

皆さんが笑顔になる有難い御法話でした。

<みのり会>

組内会

14日、築地本願寺にて、組内会が開かれました。

5月の組会に向けて、予算や行事計画などを話し合いました。

千葉組のいいところは、若手も発言できるところにあります。

若手の発言で、皆が議論をする・・・。

いい循環ができていると感じました。

<情報部>

4月法話「春はいろんな始まり」

春はいろんな始まり

本覚寺 小林智美

 

4月は始まりの月になることが多いですね。

年度はじめを今月にしていたり、入学式があったり。

実は、つい少し前まで学生だったと思っていましたが、もう、随分前の事でありました。

先輩方の「1年が早い」をだんだんと理解し始めたことに、驚いています。

 

さて、桜の花が今年も咲き始めました。

今年の桜を見る気持ちは、いつもと違う思いでおります。

と言いますのも、最近とてもお世話になったおじちゃんがお浄土へ往生されました。

人として命がある以上、避けられないのは知ってはおりますし、私もいつかは参らせていただくとは聞かせていただいておりました。

しかし、いざ、この縁がやってくるとどうでしょう。身近であればあるほどに色んな感情が湧き起りました。正直、こんなに自分がうろたえるとは思っていなかったのですが、言葉で表せないほど涙がたくさん出ておりました。

 

浄土真宗の教義は「この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」とありますので、おじちゃんはたった今、仏として活躍の真っ最中です。

しかし、それが私に直接見えていればよいのですが、見ること、触ることはできず、分からずにいます。

 

ご開山、親鸞聖人は正信偈の中で「大悲無倦常照我」と仰いました。

仏さまは「倦きことなく」常に私を照らして下さっている。「無倦」は、飽きてしまう「倦怠期」の倦ですから、「決してあきることなく、やめることなく」ということです。

 

たった今、おじちゃんは私にむけて光を照らしてくれている仏さまです。決して、「死んでお終い」でなく、私が煩悩に眼を覆われてわからなくても形を変えて仏さまとなって私に関わってくださっています。

春は、始まりの季節です。おじちゃんが仏となって初めて迎える春です。

ずっとずっと、お世話になり続けたおじちゃん、ここからまたお世話になってまいります。

大悲無倦常照我

おじちゃんがよく教えてくれた言葉でした。

親鸞聖人がお示しくださったこの言葉を通して、悲しみの別れだけではなかったのだと、改めて頂戴した次第です。  なもあみだぶつ。

3月法話「不可思議な世界」

「不可思議な世界」

 

大願寺 横田裕晃

 

先日、家族でディズニーランドに行ってきました。そこにはミッキーマウスというかわいらしいネズミのキャラクターが出迎えてくれました。

一日遊び、家に帰ってお風呂に入ると、子どもたちが「お父さんのおでこにもミッキーがいる」と言うのです。最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、私のおでこを見て、言っていました。そう、私のおでこの髪の毛の生え際が上がり、ミッキーの耳の形に見えたそうです。私のそれはミッキーほどかわいくないですが・・・

 私は好き好んでおでこをミッキーにしているのではありません。私の意志とは関係なしにミッキーになっているのです。私のおでこと思っていながら、私の思い通りにならない。はたして私のおでこなのでしょうか?私とは何なのでしょうか?

 皆さんは自分自身について考えたことはありませんか?自分の力でこの世に生まれてきたでしょうか。 「今から出ていくから待っててね」といって生まれてきた人はいないと思います。気がつけば私として生きていたのです。いいかえれば、自分で自分のいのちをつくった人は一人もいないと思います。もしできるのであれば、私はもっと身長を高くしたり、顔をかっこよくしたり、性格を良くしたりしたいものです。しかし、思い通りにならないのです。私のものだと思っているけれども、私の力、私の意志では思い通りにならないのです。それを仏教では我にあらず、「非我」「無我」というのです。

そして私は、自分の意思によらないでどんどん変わっていきます。これを「無常」というのです。無常というのは、常ではないということで、たえず変化するということです。私の意志によらないで、勝手にどんどん変わっていく、そうすると、これは自分の思うようにはなりません。思うようにならないこと、これを「苦」というのです。どんどん自分の意志に関わりなく変化をし、思うようにならない。そのような世界に私たちは存在しているのです。私たちはいったいなぜ存在しているのでしょうか。

阿弥陀如来という仏さまは、思うようにならずに苦しんでいる私を、思うようにならないことを思うようにしようとして苦しむ私をすくいたいと仏になられたのです。この阿弥陀如来のすくいのはたらきを親鸞聖人は「不可思議」と言われました。思議すべからざるはたらきにおいて、一切は存在するのです。私も、皆さんも、自分の意志でも、自分の力でもない、不可思議きわまるはたらきにおいてはじめて、いのちを与えられ、体を与えられ、心を与えられ生きているのです。不可思議なはたらきによって生かされているのです。そしてそれは、私一人のいのちがそうなのではなく、一切すべてのものが、不可思議なはたらきの中にいるのです。

 ディズニーランドは夢の世界ですが、われわれは不可思議な世界に生かされているのです。その不可思議なる世界にめざめて、我あり、我がものあり、我が力ありという、とらわれの心に気づき、あらゆるものを尊ぶ心を恵まれて、人間のもっている自分さえよければという我執を翻して生きよとはたらきかけられているのです。

来年度の予定合わせ

千葉組の常任委員会が開かれました

来年度の千葉組の行事の日程合わせです。

組長から面白い意見が上がりました。

実現できたら面白そうな企画です。

来年度の千葉組の行事をお楽しみに!

<情報部>

2月法話 「誕生日」

「誕生日」

法光寺住職 隆康浩

 

 2月19日は、私の誕生日です。

 

 以前より親から聞いているところでは、本当は2月に生まれる予定ではなく、予定日は3月末から4月初頭だったそうです。ところが2月に入って大雪が降ったため、境内に積もった雪を母親が雪かきしていたところ、急に産気づいて予定より1月半早く私が生まれてしまったのだそうです。

 

 そのため生まれたときの体重は1700グラム余りしかなく、当時2500グラム以下の新生児は未熟児と言い、40日ほど「保育器」というガラスケースに入って育てられました。もちろん記憶など残っていませんが、当時の写真を見ると、ケースの中の赤ちゃんは本当に小さくて、これが自分なの?と驚くばかりです。

 

 親はとても心配したそうで、母の方が私より先に退院したので、毎日病院まで様子を見に来てくれました。「こんなに小さく生まれてしまって、この子は無事育つのだろうか?健康に大きくなってくれるだろうか?」そう思い、未熟児に関する本を買ってきて読んだそうです。その本によれば、未熟児の子どもも大体は問題なく成長しているし、中にはスポーツ選手になった人もいる、とのことでした。

 

 早くに生まれてまだ名前が決まっていなかったので、親は「そうだ、これだ。この子もおそらく大丈夫だとは思うけど、何はなくともとにかく健康に育ちますように」それだけを願って、名前に健康の「康」という字を入れたそうです。そんな経緯もあってか、元気に健康に育てよと、周囲から願われ支えられ生きてきたのは間違いないことだと思います。

 

 しかし、この誕生日に、親からかけられる釈然としない言葉が一つありました。それは、「誕生日は、みんなに御祝いしてもらう日じゃなくて、ここまで育てられたことをみんなに感謝する日ですよ」というもの。もちろん、家族にお祝いされなかった訳でもありませんが、「他の友達は、みんな家族から御祝いしてもらう日で、誕生パーティーを開く子もいるのに、なぜ自分だけは周りに感謝する日なのか!?」と、どこか心に引っかかってすっきりしない気持ちがあったのです。

 

 それから数十年が過ぎ、今では自分も親と同じ2人の男の子を持つ身となりました。以前、子どもが高熱を出して夜通し横について看病していた時、ふと思い出したことがあります。それは、自分も同じようなことがあったと聞かされていたことです。

 

 私が3才位の頃、40度近い高熱が続いたことがあり、親は心配して私に聞いたそうです。「大丈夫か?つらいか?」。その時私はこう言ったのだそうです。「もうダメかもしれない。死んじゃうかもしれない…」。その言葉に親はとにかくビックリして、大丈夫だとは思うけど本人が言うのだから万が一大変なことになってはいけない、そう思って夜通し必死で看病してくれたそうです。

 

 その時思いました。そうであったな。自分もこのような親のまなざしに見守られ育ってきたのだな。今自分がその立場になってあらためて気づかされます。いや、親だけではありません、様々な人々、様々な動植物、水や空気や大地や色々なものの中に、この私が育まれてきたことを忘れてはならないなと思うのです。そう考えると、今になってあの親からかけられた言葉が素直に受け止められるようになった気もします。

 

 浄土真宗の教えは、「南無阿弥陀仏」に尽きると申します。「南無」とは「まかせる」こと。「阿弥陀」とは「はかり知ることができない」ということ。はかり知ることができない無限の時間と空間の中に、たまたまご縁あってこのいのち恵まれ、様々なものの中に育まれて生きて、そしてこのいのち終わっても必ず引き取られていく安心の世界があるということ。この私も、はかり知れない色々なものの中に支えられ思われこのいのちがあったこと、そんな大きな世界の中に身をゆだねて自分らしく生きていくばかりと聞かせていただく時、ただただありがたいことであったなと感謝するばかりです。

 

 2年前、長男が10才になる誕生日、手紙を書きました。最近10才は、20才の半分だから「2分の1成人式」なるイベントをする地域や学校もあると聞きます。半分とはいえ、大人に近づく息子に何か伝えたいと思っていたときに思い返したのが、あの言葉でした。

 

 「誕生日は、みんなに御祝いしてもらう日じゃなくて、ここまで育てられたことをみんなに感謝する日ですよ」

 

 あれほど自分が釈然としなかった言葉を、まさか息子に伝えたいと思うようになるとは…不思議なものです。でも、それだけ大切な意味を持つ言葉だったと思いますし、その意味がこの歳になってやっと自分にも至り届いたのかもしれません。同時に、どれほど親がきちんと自分に向き合って伝えてくれた大事な言葉かと、今になると感謝するばかりです。

 

 その手紙を読んだ息子は「何のことやら!?」とキョトンとしていましたが、いつかまたその言葉の意味を自分自身で味わっていって欲しい。自分が大きな世界の中に包まれ生かされているいのちだということを、気づかせていただく時がきたら嬉しいなあと思っています。

 

 「お父さん、お母さん、みなさん、ありがとう!南無阿弥陀仏!!」

1月法話 迷信

  『迷信』

真光寺 正木 信明

 

先日のことです。私の後輩(30代前半)が新車を購入すると言うので、相談を受けました。突然、

『正木さん、お願いがあるのですが・・・新車登録にあたり車のナンバーを決めて頂きたい』

と話し始めました。私は思わず

『どうして僕に頼むの?愛車なのだから自分の好きな数字にしたら?』

と答えると、お坊さんに決めてもらえば事故やケガが起きない!と話すのです。そこで私は『それでは、自分の誕生日の数字にしたら?』

と言うと彼の誕生日は4月4日とのこと。

『№44じゃ最悪でしょう』

と言う。彼は4=死 と捉えているようでしたので、

『4と4を合わせて、しあわせ!と言う人もいるし、親からいただいた大切な命の誕生日が4月4日。おめでたい日じゃないか?』

と話すと急に笑顔になり

『そうですね。そう考えたら楽になりました。今回は№44にしてみます』

と言い、後日納車された新車のナンバーは本当に44になっていました。数字の考え方一つでこんなにも変化できるとは正直思ってもいませんでした。根拠のないものを信じなくて良かったね!お坊さんが数字を選んでも事故やケガは起きるときは起きるよ。安全運転をね!と二人で笑いました。

 

また、数年前のある朝の出来事です。私の娘が小学生の時、朝の占いのコーナーを見て

『今日は最悪だぁ』

としょんぼりしていたので、どうしたのか尋ねると

『私の星座(12/24生まれのやぎ座)が最下位の12位だから今日は良いことがない』

と話すのでした。

 夕飯時に娘に

『今日は学校で良いことあったか?』

と尋ねると満面の笑みを浮かべ

『聞いて聞いて~。今日ね、クラスの席替えがあって○○君の隣になったんだよ。もう最高!』

と喜んでました。○○君とは、娘が好きな男の子のことらしく、私が

『そんなに嬉しいことがあったのだから今朝のテレビで占いが最下位だったけど、あの占いは当たらなかったんだね』

と聞くと

『あんなの迷信、迷信!』

と笑いながら答えてました。

『自分にとって良いこと、悪いことはどんなときにでも急にやって来る。自分が良くたって中には悲しんでる友達もいることを忘れてはいけないよ。占いなどに振り回されないようにしないとね。』

と話しましたが、実際に娘が迷信の意味を理解しているとは思いませんが、今後の大きな一歩になると思いました。

 

このように私たちは、自分に起こってきた事柄を自分の都合に良い事と悪い事、大切な事と邪魔な事、そんなふうに分けています。自分に都合の悪い事は排除しようと考えながら生きてしまうことがあります。自分の都合に合うか合わないかというのは身勝手な判断に基づく分け方ではないでしょうか。そのような人間の身勝手さの深い闇を照らし、仏の智慧の光のはたらきを自らの拠り所としていくとき、どのような問題が起ころうとも、そのことに対しての好き嫌いを超えて、事実を真っ直ぐに受け止めて生きていけるのです。

 

私たちの日常生活の中には、昔からの言い伝えや占いや六曜などがあり、このような『迷信』に振り回されて生きていることに直面します。こういうものの考え方は私たちの生き方をどんどん窮屈にしてしまいます。逆に、そういうものに捉われず振り回されないことで自分の人生を精一杯輝かせて生きる道があるのです。その道を親鸞聖人はお念仏の道として示されています。『念仏者は無碍の一道なり』と。何物にも邪魔されることのない一途の道を歩むことが仏様の真(まこと)の心に目覚めた者の姿でしょう。

12月法話 「なんで?」を考える

「なんで?」を考える

中原寺 平野俊斉

 

12月8日は何の日かご存知でしょうか?1941年の真珠湾攻撃を真っ先に思われるかたもいらっしゃるでしょうし、ビートルズファンのかたはジョン・レノンの命日が頭に浮かぶことでしょう。しかし、私たち仏教徒としては「成道会」を忘れることはできません。

お釈迦さまは29歳で出家されて6年間にわたり、自ら肉体的にも精神的にも追いつめた苦行をされました。それでもさとりを開くことができなかったことから、苦行を捨て瞑想に入られ、ついにさとりを開かれたのが12月8日です。

 

お釈迦さまのさとられたこととの一つに、「縁起の真理」があります。

 

最近、5歳になる息子の口癖は「なんで?」。
  こちらが何を話しても、息子から返ってくる言葉が「なんで○○○なの?」ということが、しばしばあります。
   今年のある夏の日のお昼時のことです。息子がインスタントスープを飲んでいたので、私が「熱いから気をつけなさい」と注意したら、「なんであついの?」との返事。「お母さんがさっきお湯を入れてくれたからでしょう。」と説明すると、「なんでお湯いれたの?」。「スープ飲みたいって言ったからでしょ。」と言うと、自分が言ったにもかかわらずに「何でスープ飲みたいって言ったの?」とまた質問。この後、「お腹空いているから。」に「なんで僕はお腹すいてるの?」。「朝ご飯食べそこねたから。」に「なんで?」。「前の日にお寺の行事があって、夜遅くまで起きていて寝坊したから。」に「なんで?」と続き、「なんでお寺の行事したの?」、「なんでたくさんの人にお寺に来てほしいの?」「なんで親鸞さまの教えを知ってほしいの?」というところまで話が広がったところで、ようやく「なんで?」に飽きたのか、息子はスープを飲み始めました。
 そばで私と息子のやり取りを聞いていた娘が「スープの話から親鸞さまの話に繋がるなんてすごいね。」と驚いていました。
 息子が「なんで?」を続けていたら、どこまで話が広がっていたのだろうと考えると、何気ない日常のなかに、場所や時代を越えた「なんで?」の答えが存在していることが実感できます。

  「縁起の真理」とは、すべての事柄には必ず何らかの原因と条件があって生じ存在するという事です。ものごとの原因は必ずしも一つということはなく、様々な要因が重なって一つの結果を生むのですが、そこには私の思いも及ばないほどのご縁が幾重にも重なり合うことで、今ここに私の生活があります。

 私が今、お念仏を称えさせていただいていることも、計り知れない多くの人々が、それぞれの場所と時代で阿弥陀さまのお心を伝えてくださったからです。そのお心とは、この思い通りにならない人生において、頼りにならないものを頼りとし、迷い苦しみ続ける私に、「あなたの苦しみ、悩みをそのままにすべてを引き受け、決して見捨てることなく、ともにお浄土へと続く人生を歩む」との阿弥陀さまからのお喚び声です。

 

「なんで?」を繰り返すことで、当たり前だと思っていたことが実は有り難いことだと気づかされます。たまには「なんで?」を考えてみませんか?