4月法話「受験シーズンに想う~正反対の味わい」
法光寺 隆 康浩
3月末。今年も受験シーズンが終わりました。この時期になるとふと思い返すことがあります。
それは私が高校を卒業する時のこと、大学に行きたいと思い受験をしました。しかしきちんと勉強していなかった当然の結果として志望校に全て落ち、親に頼み込んで浪人することになりました。そして親以外にもう一人、近所に住むおじのところに行きました。おじには高校の保証人の名前を借りていたため、卒業の挨拶かたがた受験結果も報告したのです。
「おじさん、3年間保証人の名前をお借りして有難うございました。高校は無事卒業できましたが、受験は全部ダメでした。もう1年やってみようと思います」。そう言う私のガックリした報告を、おじはニコニコしながら聞いていました。そして続けてこう言ったのです。
「キミは幸せだなあ」。
「ダメだった」という報告と、「幸せだね」という言葉が結びつかず、私がキョトンとしていると、続けておじはこう言いました。
「僕が君くらいの頃は戦争の前後で、とにかく生きることに必死だったよ。気づいたら今の仕事をしていて、気づいたらこの年齢になっていた。僕は今60歳位だけど、この歳になったら1年や2年早いとか遅いとか関係なくなる。人生は長いんだから、やりたいことがあるんだったら、1年でも2年でも思い切りやってきたら良いと思うよ。それができるっていうことは、きっと幸せなんじゃないかな」。
自分が辛い大変だと思っていた状況が、視点を変えたら全く逆に恵まれた幸せな境遇であると気づかされて、目から鱗が落ちる気がしました。その言葉を聞いて心の重荷が下りる思いがしました。ホッとした気持ちでおじの家を後にした記憶があります。浪人の1年間、辛い時苦しい時におじの言葉がどれほど私を励まし支えてくれたかわかりません。本当に有難い一言でした。
ところで、同じように視点が変わる教えのお言葉があります。
「証知生死即涅槃」(『正信偈』)
・書き下し「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」
・意訳「生死(まよい)のままに 涅槃(すくい)あり」
親鸞聖人の『教行信証』行巻末の一文ですが、正反対のことが一つの教えとして説かれます。
「生死」は迷い・苦しみ、「涅槃」は迷い・苦しみのない「さとり」を表します。両者は正反対のことですが、仏さまからの信心をいただくとき、それが一つの味わいになると「証知=知らされる」と仰ったのです。
煩悩まみれで迷い苦しみから決して離れることのできない私。そんな迷い苦しみに沈む私こそを目当てとしてお救い下さる仏さまのはたらき。
そんなものごとの見つめ方が転ぜられていくみ教えを聞かせていただく中に、ホッと安心して人生を歩ませていただく道が開かれていくことではないでしょうか。