法話

1月法話「大学試験に出た歎異抄の言葉」

天真寺 西原龍哉


2025年大学入学共通テストの「公共,倫理」の科目で、宗教に関していくつかの問題が出題されました。例として一つご紹介しますので、一緒に考えてみませんか。

【問】
大乗仏教の思想の説明として適当なものを全て選んだとき、その組合せとして正しいものを一つ選べ。

【選択肢】
(1) あらゆる物事は縁起しており、無自性であり、したがって空であることは、大乗仏教に特徴的な思想である。こうした考え方の原型は、ゴータマの教えの中にすでにあり、諸法無我などの思想に含まれている。
(2) 悟りを求める衆生は、「菩薩」と呼ばれる。様々な菩薩が活躍するのが、大乗経典の特徴の一つである。代表的な大乗経典として、出家した菩薩が送る生活を理想化して描いた『維摩経』がある。
(3) 無着(アサンガ)や世親(ヴァスバンドゥ)は、あらゆる物事は心が生み出したものであることを、識のみがあるという唯識の考え方を用いて説明した。この教説は玄奘によって中国に伝え直された。
(4) 『般若経』では主として、すべての衆生がブッダになる可能性を有しているという仏性の考え方を説いている。竜樹(ナーガールジュナ)が整理したこの考え方は、鑑真によって日本にもたらされた。


正解は、(ア)(ウ)の二つが正しいとする選択肢です。
ちなみに答え合わせをすると、(イ)『維摩経』は、出家した菩薩が送る生活ではなく、在家生活を送る維摩居士の生活が描かれた経典です。(エ)鑑真は『般若経』ではなく「戒律」を日本にもたらした、が間違いとなります。これはなかなか難問ですね。

興味深かったのは、問題に『歎異抄』が取り上げられていたことです。生徒が倫理の授業で発表をする形式となっていて、空欄に入る適切な答えを選びます。

【問】
高校生Dは、倫理の授業で発表を行った。次の発表中の空欄( A )に入る記述として最も適当なものを選べ。

発表
「これを信じています」と言えるような信仰対象をもたない私は、存在するのかもわからない神仏の教えをなぜ信じられるのか、不思議でした。
いろいろ調べているうちに、親鸞についてのあるエピソードにたどり着きました。弟子が、「念仏をすれば誰でも往生できると阿弥陀仏は約束なさったのだから、念仏したときに躍り上がって喜んでもよいはずなのにそうはならず、速やかに浄土に行きたいという心も起きません。これはどういうわけなのでしょう」と質問したとき、親鸞は、「私もあなたと同じで、念仏しても喜びが生じない、喜ぶべきことを喜べないのは煩悩のしわざでえあるが、( A )。だからこそ往生は確実だと思えるのだ」というようなことを答えたそうです。
 宗教者も自分の信仰に不安や疑問をもつことがあると知って、宗教が少し身近に感じられました。

【選択肢】
(1) そのような「煩悩具足の凡夫」にも仏性は備わっているのであり、それを開花させるための自力の行として念仏がある。
(2) 仏は人間がそのような「煩悩具足の凡夫」であることをよくご存じで、そういう人間を救おうという願を立てられた。
(3) そのような「煩悩具足の凡夫」でも、他者に救いの手を差し伸べることで自分も往生できる道を、仏は用意してくださっている。
(4) 仏はそのような「煩悩具足の凡夫」の自覚がない人を「悪人」と呼び、それ以外の衆生をすべて救うとおっしゃっている。


確固たる信仰を持たない学生が、宗教者も信仰に不安や疑問を持つことを知って宗教を身近に感じられたという内容で、『歎異抄』第九条が取り上げられいます。これは30代の弟子の唯円房が50歳年の離れた80代の親鸞聖人に、「念仏をしても躍り上がるような喜びも浄土に速く行きたいとう思いもわかない」とその悩みを意を決して尋ねる場面です。

正解は(イ)ですが、一般的な仏教のイメージから答えると(ア)と間違えそうです。煩悩具足であっても煩悩を振り払って自力の念仏を称えれば、仏さまに近づくことができるという考えです。
しかし、親鸞聖人はご自身の心に真正面から向き合われ、人間にはいくら努力して除こうとしても除くことができない煩悩があることに直面されます。親鸞聖人の人生は、まさに鏡の前に立ち続けた人生であったと言われます。

「煩悩具足」という言葉は、「私は煩悩具足だから」と、私が自分のすがたを見た世界で、自分で自分を貶めるための言葉ではありません。私の本性をのぞけば、そうは言っても自分が一番かわいいという思いが潜んでいます。「煩悩具足」とは、仏さまが私のあり方を教えてくださる言葉です。必死で握りしめようとするものは指の間からこぼれ落ち、苦悩の渦に飲み込まれながら生きているのが私たち人間のすがたです。

親鸞聖人は、仏さまがこの煩悩まみれのいのちを救わずにはおれないと願いをたててくださったのは、この私一人のためであったとそのお慈悲をいただかれました。私の罪深さを知ってこそ、お慈悲の深さは一層味わわれます。仏さまのみ光に照らされ、お念仏申しつつ報恩謝徳の生活を営む歩みこそ、浄土真宗の仏道です。