「生かされて」 純心寺 曽我弘章
『生かされて』〈歎異抄第一条〉
純心寺住職 曽我弘章
古本屋で求めた一冊の本を読んでいましたら、 1枚の紙が足元に舞い落ちました。
薄茶色に変色したその紙は、「某老人クラブ会員各位様」宛の 『法話会のお知らせ』 でした。この案内状が作成された日付は昭和63年7月17日となっています。
『法話会のお知らせ』
本年 第四回目の法話会を左の通り巌修致しますから お誘い合せ多数の御参詣をお待ち致して居ります。
記
一、 日時 七月二十四日(第四日曜日) 午后二時より
一、 場所 某保育所階下
私は、好奇心から「某保育所」 という場所がどこにあるのか調べてみました。すると、石川県にあることがわかりました。
この保育所は、「楽しく明るく和やかな雰囲気のなかで思いやりのある子、元気な子の育成をめざして職員全員が心をひとつにして努力しています」「天気の良い日は散歩に出かけ、自然にふれて遊ぶことを大切にしています」「読書は心の栄養、人と人とを結ぶ心の広場です。絵本の読み聞かせ、図書の貸し出しなど蔵書も多く、読書の充実に努めています」「こままわし・旗源平・わらべ歌など古くからの伝承遊びを保育にとり入れて楽しんでいます」「花作り、野菜作りを通して、植物を愛するやさしい心を育てています」 等々の 教育方針が掲載されていました。
私は、「お寺や集会所ではなく、保育所を会場にして 定期的に法話会をお勤めになる老人クラブもあるのか・・・・・」と思いながら案内状を読み進むと、この『お知らせ』は次の詩で終わっていました。
『生かされて 』 ( 合掌会 )
一、 たとえ まなこは見えぬとも み仏さまを 信ずれば
慈悲のまなこが 開かれて 光の中に 生かされる
二、 たとえ この手はなえてても み仏さまを 信ずれば
慈悲の心が み手となり み法の中に 生かされる
三、 たとえ 病に ふせてても み仏さまを 信ずれば
慈悲の心に つつまれて めぐみの中に 生かされる
南無阿弥陀仏 合掌
思えば、四半世紀もの間古本の中に眠っていたこの1枚の紙は、私への『お知らせ』でもありました。
阿弥陀さまは、「あなたをどうしても救いたいのです」と仰せられます。「私はいつもあなたのそばにいますよ。煩悩により苦悩するあなたを必ず助けます。仏にします」と呼びかけてくださいます。
私たちは、阿弥陀さまに見守られながらこの人生を生きて、生ききったときにお浄土で仏にしていただく身なのです。私たちは、この世の生活は変わらないけれども、煩悩をもったままの私が、「そのままのあなたでよい」と仰せられる阿弥陀さまのお力によって、まちがいなく真実の浄土に至って仏になる身としての人生を歩んでいるのです。
最後に、この『生かされて』のお心をいただきながら、親鸞さまの直弟子である唯円さまが書き残された「歎異抄」の第一条を現代語に訳してお伝えさせていただきます。
「阿弥陀さまが仏さまになられる前の法蔵という名の菩薩であられたとき、『苦悩に沈むあなたをどうしても助けます』という願いをたてられました。そして、『私の名(南無阿弥陀仏)を一度でも(一度でも、二度でも・・・・・、十度でも・・・・・)心から称えたあなたが、もし安らかで浄らかなお浄土に往生できなければ私も仏にはなりません』との誓いを守られて阿弥陀如来となられました。その願いに気づいて、『私も阿弥陀さまの名(南無阿弥陀仏)を称えてみたい』という思いが私の中に起こったとき、『そのままのあなたを助けます。あなたを必ず救い取って絶対に見捨てはしません』というお心に包まれ、阿弥陀さまに見守られながらこの人生を生きて、生ききったときにお浄土に往生させていただく身となりました。『そのままのあなたを助けます』と呼びかけられる阿弥陀さまのいのちと、『ありがとうございます』と安心して返事をする私のいのちが、『南無阿弥陀仏』の名号によって固い絆で結ばれたのです。
阿弥陀さまの願いは、老人も若者も善人も悪人も、どんなものも分け隔てされません。ただ、差し向けられた阿弥陀さまの願いをそのまま受け取る心がもっとも大切であると心得なければいけません。なぜならば、阿弥陀さまの願いは、もともと煩悩のために罪重く悩み多い私たちを救うためにおこされたお慈悲の誓いだからです。
したがって阿弥陀さまの願いを受け取ったからには、『私が救われるためにはもっと善い行いをしなければいけないのではないか』などと心配する必要はありません。阿弥陀さまは、自らのいのちのすべてを『南無阿弥陀仏』という本願の名号にこめて私に呼びかけ、そのお呼び声(名号)を『南無阿弥陀仏(ナマンダブ、ナンマンダブ)』と聞く(称える)私を無条件で救いとられるのですから、念仏よりも優れた善はどこにもないのです。
また、『私のように悪い行いがあってはとても救われないのではないか』と心配するかもしれませんが、大丈夫です。どんな悪い行いでも、阿弥陀さまの本願の前に立ちふさがるほどの悪は決してないからです」と、親鸞さまは仰せられたのです。〈歎異抄第一条〉