深い悲しみ 苦しみを通してのみ見えてくる世界がある
法話

6月の法話『深い悲しみ 苦しみを通してのみ見えてくる世界がある』

深い悲しみ 苦しみを通してのみ見えてくる世界がある   西光寺 吉弘円秀

 真宗の教えを『体験の宗教』と語られることがあります。「正直になれ正直になれと云われるが、親鸞聖人ほどに正直になることはできません」、と話される年寄りがおられました。篤信の真宗門徒と云われた方であります。

 自らの体験に真向かうこと、真実勇気のいることです。誰も見ていないことですから、人の目を誤魔化すことは幾らでも簡単に出来るように思われます。その誤魔化しが通用する社会もあります。けれども誤魔化しを続ける先には何が待っているか、誰も自分のことを本当には分かってくれてはいないという冷え冷えとした孤独と、そこから抜け出せないというあきらめと焦燥とが繰り返される世界であります。

 もう三十年程も前の話です。悪い酒を重ねていた人が、「坊さん、俺は戦場から逃げるとき、戦友の遺体を踏み台にして逃げてきた。このおれはたすかるのか」と問うてきたことがありました。戦後三十年余り、戦友と云えば悲しみや辛さの中でも美談として語られることが多い中で、この人の足の裏には亡骸を踏みつけたときの触感がまだそのときのままに残っているのでした。それを抱えて生きていかねばならない苦しさは如何ばかりのものであったでしょう。仕方なかったと云われても、それでは済まない厳しさに向かっておられたのです。

 人一人を殺せばたすかるぞと云われてもその一人を殺すことはできません。しかし誰一人殺すものかと思っていても百人千人を殺すことがあります。『さるべき業縁のもよおさば如何なる振る舞いをも為すべし』と云われる通りです。その業縁のままに日暮らしを重ねて、悲しみ・苦しみ・辛さに身をどう処していいものか迷うことしかできなくなり、母に『辛かったろう』と迎えられて『辛かったァ』と母の懐に泣き崩れる大の男がおりました。

 親鸞聖人は『御同朋・御同行』と門徒にかしづかれていたと云います。聖人の眼にはあらゆる人が「深い悲しみ・苦しみ」を生きている人に映っていたのでしょう。その聖人のお姿を見て、阿弥陀さまがここに生きておられると深い想いを抱いた人も一人や二人ではなかったのでしょう。          

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