天国と地獄
法話

8月法話「天国と地獄」


 

「天国と浄土」

 

                                                          高林寺住職 菅原智之

 

 

 

「天国と浄土は同じか、違うのか」という質問がありました。

天国という言葉が一般化し、浄土真宗の葬儀挨拶でも「天国で安らかに」と別れを告げることはよく見聞きします。

 

天国と聞いてイメージするのは、このような世界ではないでしょうか。「死して天の国へと生まれ、また今まで通り、私の続きを生きる。永遠に」。私の続きがあることが悲しみを和らげ、一見安らぎとなるような気もします。しかし…。

 

我々は今まで頑張って生きてきました。「無いものがあれば手に入れて、手にしたものは離さない」と。それは「手にし続けることが幸せである」と思うからです。

 

しかしどれだけ頑張っても「失う」現実は変わりません。若さを、健康を、大切な人を。でも「失う私」を認められない私。だからまた頑張って別のものを「手に入れる」。でも「失う」…。私とは「手にして失う」の繰り返しの歴史であり、その先にあるものは、私自身の死です。「天国でまた私の続きがある」のならば、「手にして失う」を永遠に繰り返すのでしょうか。それが現世の延長ならば決して安らぎではなく、まさに永遠なる迷いの姿でしかありません。

 

浄土。それは「阿弥陀如来のさとりの世界」であり「すべてのいのちがあるがままに光り輝く世界」です。「私を卒業しさとりの身とさせていただく世界」。それは私の最大の価値観「手にして離さないことこそ幸せ」を卒業していくということです。私という執着からの解放。だからこそ本当の安らぎとなり、私が帰って往く場所となるのです。

「お浄土へ生まれ仏となる」私だからこそ、今を安心して生きることができる。浄土とは、いのちを根本から支える大地です。

 

頑張っている私。でもそれは「私と私の大切な人だけが笑顔になるような頑張り」だったかもしれません。お浄土の輝きは、私を照らします。すると進むべき方向が知らされ、頑張る向きが変えられていきます。それがお育てをいただくということであり、「他者との関係を見つめること」に繋がります。

「より多くの人が笑顔になれるように頑張る」。そこにこそ、すべてのいのちを支え輝く大地を発見することでしょう。それが今の私にはたらくお浄土のすくいであります。

合掌