1月法話 年をとることの本当のよろこび
年をとることの本当のよろこび
宗真寺 前住職 石川慶子
「きのう分からなかったことが今日は分かる、年をとることの本当のよろこび」
どなたの言葉を引用したものでしょうか。父が最晩年、お寺の掲示板に書いた言葉です。
その頃、父はもう90才に近い年令でした。小柄な身体に杖を持つか、ほうきを持つか、いつもゆっくりと境内中を歩き、あるいは参道をはいている……思い出されるのはそんな姿ばかりです。そしてそれが老住職の仕事でした。副住職だった私は忙しく走り回っていたというのに。
その父が“きのう分からなかったことが今日は分かる”と書いたのだから、私は驚きました。まるで成長期の若者がいうような言葉ではないかと。
後継者不足を補う為に寺に戻ってきた私は、にわかの僧侶。老父を助けて懸命に寺の仕事をこなしながら、目の前の課題をはたす為に勉強しました。お正信偈の一句一句が、なる程そういう意味でありましたかと理解できていく嬉しさ……“きのう分からなかったことが今日は分かる”とはそういうことを言うのではないか。どうしてそれが“年をとることの本当のよろこび”という次の句につながっていくのか……不思議な気持ちを抱いたものでした。
あれから数十年が経ち、父の後を継いだ私も住職を退いて、今年古稀を迎えます。がんばっていたあの頃からすれば、動きは大分鈍くなりました。眼鏡に助けられてさえ活字を読むことが大儀になってきました。それなのに取り入れた知識が頭の中に留まってくれません。だからでしょう、改めて同じ部分を読んでみると何と前と同じに、いやもっとより以上に、感動したり深くうなずいたりできるのです。
これを情けないと嘆かずに、私は幾度でも感動しつつ受け止めていこうと思うことにしました。そう思えば私は圧倒的な先人の知恵やまわりの人々の深い思いに囲まれている。受け止め切れぬ程豊かな善知識に包まれていると喜べるのです。そしてその中に、小さな身をひたし、さらしていこうという気持ちになるのです。
がんばることも大切。けれどがんばりで開かれるのはほんの入り口です。年令を重ね、我と我が身がおぼつかないものだという事実を生きていくにつれ、私を包み込んでいるものの大きさ豊かさが見えてくるのです。つかの間の人の世を生かされている、とつくづく思えるようになり、嬉しかったことだけでなく、苦労したこともまた大切ないただきものだったと振り返ることができるようになりました。
“きのう分からなかったことが今日は分かる” ――――――分かってくるのは、私をこうあらしめているはたらきの大きさです。仏教はそれを「他力」と呼びます。“他力の中に生かされている”という思いが、年令とともに深くなってきました。“年をとることの本当のよろこび”とはこういうことだったのかと今の私は受け止とめています。更に年をとっていったら、もっと別の味わいが生じることでしょう。それもまた楽しみです。
ですから若い方にも年配の方にもみなさんに改めて申しましょう。
新年を迎え、お互いひとつ年令を重ねられたこと、まことにおめでとうございます!