大遠忌
法話

報恩講をお迎えして・・・

弘教寺 小林覚城

 💚10月の法話💚 

 10月に入り、これから順次 組内(千葉県の)各寺院にて報恩講法要がお勤まりになることでしょう。宗祖親鸞聖人のご命日をご縁として、報恩の思いからお勤めさせて頂く、年間で最も大切な法要です。共々に御念仏申させて頂きましょう。

 南無阿弥陀仏のお念仏は私を必ず救うと誓われた阿弥陀様の喚び声であります。ただ、なかなか皆様お念仏を申しにくいようです。その理由として意味が良くわからないからとおっしゃるお方は、意味がわかるとますますお念仏申したくなくなるかも知れません。

この御念仏、『南無阿弥陀仏』の意味合いですが、『南無』とは「帰依する」の意味ですから、「阿弥陀仏に帰依します宣言」と申せます。 

 「なぜ私が阿弥陀仏とかいう、よくわからない仏様に帰依しなくてはいけないのか」…そんな思いが湧いてくるかも知れません。

 阿弥陀様に帰依せず生きるなら、どう生きますか? 「私は私を信じ、私を頼りとして、自分の人生を生きていくだけだ」と声高らかにおっしゃるお方もあるかも知れません。

 まさに『南無自分』宣言です。

 もちろん自分なりの夢や目標を持ち、それを叶えるために必死に努力する…そんな人生を否定するつもりはありません。

 ただ、今の自分は当てになりますか? これまでも当てに出来ましたか? 今後も当てになりますか?

 私は生身の人間です。

 だから生きていれば、自然に歳を取ります…老いていきます。身体は弱っていきます。今もこれからも病気も数多く得ていくことになるでしょう。そしていつか必ず死を迎えます。

 身体がそうなら、心もそうです。心は一定しません。ちょっとのことでふらふら揺れるし、ころころ変わるものです。だから私の悩み苦しみは無くなりません。悲しみや怒りも消えることがないのです。

 それでも、やはりこれからも自分を信じて生きていきますか…それは大変じゃないですか。辛くはないですか。

 仏様が念仏申してくれよとおっしゃるのは、何とかしてあなたをその苦しみから離れさせたい、すくいとりたいと願うからです。『「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏申さしめることによって、自身が「南無自分」の生き方、考え方に凝り固まっている事実に気付かせたい、そこから離れさせてやりたい』と思惟された(考え抜かれた)からです。

 この私をすくう為、悩み苦しみの一切無い、また老いること・死ぬことのない永遠の命、つまり仏に仕上げる為に我に恵まれたのが御念仏です。

 それでも念仏申さず、自分の思うように生きようとする私を仏はあきらめません。見放しません。なぜなら仏様は私を「視そなわすこと自己のごとし(まるで自分自身を見るように、さまざまな人々をみるのである)」(無量寿経)と御覧になっておられるからです。

 仏様からすれば、私の迷い・苦しみは他人事では無く、御自身にとっての問題なのだということです。仏様は同情から私をすくうのではなく、御自身の問題だからこそ私を放っておけないのでした。

 「仏心というは大慈悲これなり」(観無量寿経)

とにもかくにも私が心配で仕方が無くて、悩み苦しむ私に寄り添い、慈しんで下さるのが仏様です。私の為にそこまでなさって下さる仏様は、そこまでして頂かねばどうにもこの命生き抜いていけない、我の現実の姿を明らかにして下さっているのだと頂戴致します。

 そのような仏様の真実のおすくいを我に明らかにして下さったお方が宗祖(浄土真宗をお開きになられた)親鸞聖人です。

報恩講はそのご恩に報いる為の大切なご法要でした。共々に努めてお参りさせて頂きましょう。