生死一如
浄土寺 藤田英範
💚12月の法話💚
先日、孫の祖父母会に出席しました際、園児達が何曲か歌を披露してくれました。
その中で、私自身何度も聞いたことのある「手のひらを太陽に」を歌ってくれました。
皆様も聞いたこと、歌ったことがあると思います。
「ぼくらはみんな生きている」から始まり
生きているから歌ったり、悲しんだり、笑ったり、喜んだり、踊ったり、愛したりする
んだと歌って、さらにミミズ、オケラ、アメンボ、トンボ、カエル、ミツバチ、スズメ、
イナゴ、カゲロウみんな、みんな生きているんだ、友達なんだと続く歌です。
私は今迄に何度もこの歌を聞いていたにも関わらず、あまり意に介さず聞き流し
ていましたが、今回この歌を聞いて、「生きている」ということを改めて考えさせら
れ「すばらしい」と感動しました。
皆様方は如何です。私が年をとったせいでしょうか?
私達はよく「死」を自分の周りから遠ざけ、「生」ばかりをおってしまいがちですが、
かと言って本当に「生」をしっかり見つめているでしょうか?
今日も明日も、明後日も生きている(=命がある)のは当然であり、改めて意識す
ることなしに毎日を過ごしていませんか?
現実的な面から見れば、私達は生きていくために、まずは当然ですが食べなけれ
ばなりません。食物(肉、魚、野菜等)を摂取することで肉体を維持することが出来
る訳ですが、これは他の物の命を奪って私達は生きるということであり、私達の生
と他の物の死が同時に成り立って生=殺ということになるのです。
さらに大自然から戴く空気、水、光それらのものを取り込むことによって命を支えて
生きているわけですが、それだけでも生きていけるものではありません。
人は、自分を取り囲む家族、そしてその周りの方々による直接、間接的にしろそれ
らの支えにより生きていく事が出来る存在なのです。
浄土真宗では食事の際に以下の言葉を唱和します。
食前の言葉
・多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
・深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
食後の言葉
・尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
・おかげで、ごちそうさまでした。
この言葉に言い尽くされているのではないでしょうか。
何かのきっかけで、自分の力だけを信頼して生きてきたつもりの自分の思いあが
りがひるがえされ、はじめて、全ての人々のお陰で生かされていた自分であった
と気付かされる時があります。
このように私達を取り巻く物、人の支えによって生きているということは、それらに
よって生かされている存在であるということであり、今ここに生かされている命を
見つめ感謝することは「死」を見つめることでもあるのです。
仏教では『生死一如』といって、生と死は表裏一体であって生と死を分断しないこ
との意味がここに込められているのです。
蓮如上人が白骨の御文章の中で「我やさき、人やさき、今日ともしらず、明日とも
しらず」とおっしゃっておられる通り。今日か明日かわからない大人も老人もそ
して子供も、今日を最後として生きているのです。
もう故人となられましたが、映画の評論家で有名な淀川長治さんという方をご存
知でしょうか?若い方達には馴染みがないかも知れませんが、この方は行き先
で自分が死んだ時に、まわりの人に迷惑をかけてはいけないという信念から、
どこかへ出かける時にはいつも、いくらかは知りませんが、それに相当するお金
を持ち歩いていたそうです。
「人間はいつどこで人生を終わるかわからないので、いつもその心構えをしてお
かなくてはならない」というのが口癖で一日一生の思いで生きておられたようです。
ある時友人が、貴方のように「いつ死ぬかわからない」などと何時も考えていたら
気持ちが暗くならないですか?と聞いたら、その時「いや、いつ終わるかもしれな
いと考えているから、何事にも全力投球ができ、いいかげんな生き方は出来ない
という思いが湧いて、毎日が充実し、明るく楽しく生きられる」といったそうです。
明治の先達清澤満之先生に「生のみがわれらにあらず、死もまたわれらなり」と
いう言葉がありますが、『生きている』と言うことは、正確には生死しているという
ことであり、何時どのようになってもこれで充分ですと言えるような生き方を自ら
に問いただすということが大切な意味をもってくるのです。
このような生き方を毎日思って生きていくということは難しいことですが、少しでも
この様な気持ちを持って、一日一日をすごして行きたいものです。
如何でしょうか?
自分の人生ですものね。
南無阿弥陀仏