1÷1/10=
西光寺 吉弘一秀
💚7月の法話💚
問題
1÷1/10=
久々の分数の割り算 いかがですか?
答えは10です。
正解しても何も出ません^^
さあ、ここで一緒に考えていただきたいのです。なぜ割り算なのに答えが増えるのか。
学校では、分数の割り算は、割る方の分母と分子をひっくり返して掛け算をすると教わりました。
1×10=10だと…。
もし子供に「なんで?」と聞かれたら私は困ってしまいます。
佐治晴夫さんという物理学の先生がおられます。この方は、扇風機にゆらぎの機能を付けた第一人者で、仏教や音楽にも精通しておられる方です。本も出されその中で、佐治先生が分数の割り算について、
「何で1/10で割ると答えが大きくなるのかと子供に聞かれたらそれは、『不思議の国のアリス』にように、あなたが小人になったと思いなさい。同じものがあるときに、あなたが10分の1の大きさの小人になったら相手は10倍に大きく見えるでしょう? 人間の目では1に見えることも、小人には10に見え、虫には100や1000にも見える。」
と言われました。なんとも素敵な例え方ではないでしょうか。感性を刺激する数学です。
これを見ました時に、仏教が説く「我執」からの解放につながる話ではないかと思ったのです。「我執」とは、執われのこころ、偏見や固執したものの見方をさします。この「我執」を数式化して先ほどの式の割るほうに当てはめてみしょう。我々が見えている世界をnとしますと、n÷我執=n/我執=その人の見えている世界
我執が大きくなればなるほど見える世界は小さくなります。世界が小さくなると、すこしのずれも許せなくなってきます。反対に我執が小さいほど、見える世界は大きくなります。「我執」を小さくしていくこと、「我執」から解放されることを仏教は目指します。
さあ、ここで問題なのが、「我執」の心からどう離れられるのか。そう離れることはできません。たとえ、ひとつの我執から解放されても、また新たな我執がすぐさま現れます。一つの願いが叶っても、また新たな願いが出てくる。尽きることのない、終わりのない障害物レースを走っているかのようです。
阿弥陀如来という仏様は、そのような凡夫の姿をご存知です。それを承知の上で私を、あなたをすくおうと仏となられました。浄土真宗の教えの要は、私は我執を持ち続ける人間であると自覚すると同時に、その私を必ずすくうと誓われる阿弥陀如来の本願を頂く事なのです。
南無阿弥陀仏