み仏に どちらを向いても拝まれている私
法話

阿弥陀さまの用(はたら)きは 私のうえに現れる

西方寺 西原大地

 💚10月の法話💚 

先日、地元の学習塾の前を通りすがった際に「県立〇〇高校 合格者〇〇名」と大きく張り出された掲示を目にいたしました。

塾の生徒が有名高校に合格するという姿を通して、その事柄を実現させるだけの指導力がその塾にはある、ということを主張しているのでしょう。

この張り紙を見て懐かしく思い出されたのが、自宅のポストによく投函されていた、子ども向けの通信教育の案内です。

通信教育の案内と言っても、小学校3年生くらいの男の子が通信教育を始めたことをきっかけとして、今まで苦手だった科目を克服し友人にも恵まれ、成長していく姿が描かれた漫画の冊子です。

「県立〇〇高校 合格者〇〇名」ほど直接的ではありませんが、男の子の成長を通じて通信教育の魅力・教材の力を伝えているのでしょう。

この様に、物事が変化する姿を通して、その様に変化させた力を私たちは感じることがあります。

その力のことを「はたらき」と言い、浄土真宗のご法話の中でも度々耳にする大切な言葉です。

親鸞聖人は主著『教行信証』の中で、全ての者を救わんとはたらく阿弥陀如来という仏さまを「磁石」に譬えています。

私たちは磁石が放つ磁力を目で直接見ることは出来ませんが、磁力に引きつけられる物質の姿を通して「磁力」という力(はたらき)を知ることができます。

この喩えからも分かるように、阿弥陀如来という仏さまは、目で見て手で触れて確認できるような仏さまではないということです。

この仏さまは私の外側にいらっしゃる仏さまではありません。

「県立〇〇高校 合格者〇〇名」「小学校3年生くらいの男の子が通信教育を通して成長する」という姿がそのまま、「塾の指導力」「教材の力」を示すように、この命の行く末に対する不安が晴れる私の心の有様、そして合わさる事の無かったこの私の手が合わさり、下ることの無かったこの頭が下がる姿がそのまま、阿弥陀如来という仏さまのはたらいている証拠なのです。