大嘗宮
法話

私を包むもの

大願寺 横田裕晃

 💚12月の法話💚 

 2019(令和元)年も残すところ一か月となりました。年末は何かと忙しい日々が続きますが、心は亡くさないように過ごしたいものです。

さて、来年はいよいよオリンピックの年です。私もチケットを申し込みましたが、一つも当たりませんでした。日頃の行いが悪いのか・・・ただ単に縁がなかったのか・・・二次抽選に申し込みましたが、さてどうなるでしょうか。

オリンピックを見ておりますと、金メダルを取った選手にインタービューが行われますが、選手たちは「皆さんのおかげでメダルを取ることができました」と答えます。私だったら、「私が一生懸命練習しましたからね」などと言うかもしれませんが、ほとんどの選手は周りへの感謝の言葉を口にします。

小学生の頃、夏休みに福井県の母の実家に遊びに行っておりました。母の実家は農家ですので、田んぼや畑に手伝いに行っておりました。収穫時期になるとお米やお野菜を送ってきてくれたものです。小さい頃はただ単においしくいただいておりましたが、大人になるにつれてこのお米をスーパーで買ったらいくらぐらいするかなと考えるようになりました。何かもらい物をしたときは、必ずいくらぐらいするだろうと考えてしまいます。お歳暮もそうです。いくらぐらいかなとすぐに考えます。

祖母に御礼の電話をしたのですが、私が「美味しかったよ」というと、祖母は、「今年は天気が良くて、おてんと様のおかげや」と言いました。「ばあちゃんが頑張ってそだてたから」とか、「肥料を沢山あげたからから」というのではないのです。太陽が照って下さったから、雨が降って下さったから、大地が育んで下さったから美味しいお米が出来たというのです。

 同じお米を目の前にしていながら、私と祖母では、見ている世界が全然違うのです。私が見ているのは「これなんぼやろ」という「お金の世界」、それに対して祖母は、いろいろのものに支えられて、お天道様や大地のおかげでという「おかげの世界」を見ているのです。同じ物を見ていても、全然違う世界を生きているということがあるのです。

 私は祖母から「おかげさまの世界」を教えていただいたのですが、同時に、普段おかげさまなんて感じていなかった私の姿も教えていただいたのです。おかげさまに気づくということは、おかげさまと思えていない自分の姿に気づくことなのです。

 「おかげさま」という言葉は、目にみえないかげなるはたらき、それを「かげ」といい、その上と下に「お」と「さま」をつけて「おかげさま」と押しいただいていくのが「おかげさま」です。その目に見えないかげなるはたらきと言うのは、何もいいことばかりではないのです。いいこと悪いこと一切を含めて、目に見えないかげなるはたらきなのです。

 それを親鸞聖人は「自然法爾(じねんほうに)」(自然の理)と示されます。「自は阿弥陀如来おのずから、然はしからしめる。おのずからしからしめるままに、一切はそうなるべくしてそうなった、それが自然です。法のままにしからしめるのが法爾です。「欲も多くいかりはらだちそねみねたむ心多くひまなくして臨終の一念に至るまでとどまらず、消えず、たえず」な私をそのまま認めて下さるのが阿弥陀如来なのです。

阿弥陀如来の本願の法は、「私が」という自我の思いを翻して、法にすべてをまかせたら、法のもつ自然のはたらきで摂め取られるです。私は今、大いなるかげなるはたらき、私を私たらしめる不可思議なるはたらき、阿弥陀如来に包まれ摂め取られていると感じずにはおれません。