注射の譬え
西方寺 西原大地
💚7月の法話💚
浄土真宗は、阿弥陀如来のご本願のうえに私の命の意味を聞きひらいていくというみ教えです。
阿弥陀如来のご本願とは、全ての命の心の有り様や身の振る舞いを問わず、誰一人漏らさずに仏にしあげようという願いです。
この願いが唯だの願望で終わらずにいま完成し、私の口に「南無阿弥陀仏」と称えられる姿をもって現に用いている事を通して、私の命の意味を見ていくのです。
蓮如上人のお手紙には「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」とありますように、この人生で獲得したものを以て命の価値をはかっていくならば、全てのものを手放してむなしく終っていくしかありません。
しかし、阿弥陀如来のご本願を通して私の人生を聞きひらいていくならば、死は悲しいこと寂しいことではあるけれども、この命を終えると同時に私自身が仏となって自由自在に他の命を救い取っていく存在になるご縁であって、決して不幸せな事ではありません。
たとえ、辛く悲しい事であったとしても、そこに意味を見出す事が出来たとしたならば受け止めて行くことが出来るのが私たちなのでしょう。
これは、浄土真宗に限った話ではなく、私たちの身の回りにも同じ様な事があるようです。一つ、身近な話をご紹介いたします。
私には3歳と5歳の娘がいるのですが、子どもが最も嫌がる事の一つとして挙げられるのが予防接種の注射です。
大人の私でも注射がある日には気分が落ち込むものですから、当然 子どもが進んで受け入れてくれるはずがありません。注射があると分かると前日からグズりだすので、ある時「注射がある」という事実を隠し、病院へ連れて行ったことがありました。「死」を連想させる番号の「四」を使わない等、不都合なものに蓋をして目を背ける現代の有り様と似た状況と言えるでしょう。
処置室に呼ばれ、目の前の先生が突然注射器を取り出すものですから、娘は気が動転し大泣きします。何とかしてこの状況を脱しようと娘は暴れるのですが、それを周りの大人が抑えこんで無理矢理注射をするという事がありました。
その状況を目の当たりにして心が痛んだのですが、子どもにとっては痛くて辛い注射であったとしても、今後 掛かる可能性のある病気を未然に防ぐという目的を持った意味のある注射です。
娘の為にも予防接種の注射をやめるわけにはいきません。
そこで、「注射がある」という事実を隠し騙し打ちをするという考えを改め、痛いことかも知れないけれども、娘自身の為にも予防接種の注射が必要である事を子どもでも分かるように平易な言葉で伝えるよう努めてみたのです。
すると、効果てきめんでした。
確かに、注射の針が肌に刺さる際には、以前と変わらず顔の表情は歪んでいましたが、注射の前も後も「これで病気にかからないもんね」と頻りに口にしていたのです。
注射の針が肌に刺さるという子どもにとって痛ましい事実は変わらないけれども、そこに意味があるならば小さな子どもでもその事実を受け止めていこうとするのです。
振りかえって私の人生を思い返して見ますと、どんなに華やかな人生を送っていても、最後は力なくして終っていかねばなりません。それは、死を当たり前の事として受け止めていく事が難しい私たちにとって辛く・悲しいことです。
その人生に意味を与えてくださるのが阿弥陀如来という仏さまのご本願です。全てのものを漏れなく仏に仕上げるという阿弥陀如来の願いのうえに私の人生を見ていく時、この娑婆の縁が尽きるという事態は、辛く・悲しい事ではあるけれども、仏の命を賜る大切な機縁であり意味のあることであると受け止めて行く事が出来るのでしょう。