オウムのダイエット
西光寺 吉弘一秀
💚 5月の法話 💚
六度集経に説かれる物語です。紙芝居用に私なりに翻訳したものです。
昔々、大食いの王様が居ました。王様は、鶏肉が好物で、中でもオウムが大好物だったのです。王様は、国中の猟師に命じました。
「オウムを持って参れ。高値で引きとろう」
御触れがでますと、猟師達が我も我もとオウムを捕らえ、城へ次々と持ち込まれました。
捕らえられたオウムは、お城の牢屋に入れられる。オウム達はなにをされるのかと怯えておりますと、毎日毎日ご馳走を与えられる。
「ごはんだー。今日もごちそうだ。」
「それはおれのだ」
「俺のをとるな」
ご馳走を取り合う毎日。捕らえられたオウムの中に、オウムの王様が居ました。王様は、
「どうして人間は、我々にご馳走を与えるのだ。何かおかしい」
と様子をうかがっていると、或ることに気づいたのです。そしてオウムの王様は。オウム達を集めて、
「お前たち。人間たちは何故我々に馳走を与えるのだろうか。それは、好意なのか。否、肥やすためなのだ。
私は、人間たちの様子をうかがった。すると、毎日、同じ時間に一羽ずつ一番肥えたものから捕らえられていく。
なぜだ。
我々が太ると、人間は美味しいと感じるからだ。
私は、今から食を断つ。一時の苦しみで、いのちが長らえるかも知れぬ。
貪りは愚かである。蜜を塗った刃物を舐めるようなものだ。痛い思いをする前に、お前たちも食を断とうではないか。」
それを聞いたオウム達
「はぁ。王様何言ってんだ。目の前に馳走があるのになんでそれを食べちゃいけねえんだ。」
「王の言う事はほっとけほっとけ」
オウムの王様だけが食を断つことになりました。
日に日に痩せていくオウムの王様。日に日に肥るオウム達
ある日、げっそりと痩せたオウムの王様が、オウム達の喧騒の中、ヨロヨロと歩き始めました。すると、牢の隙間から抜け出すことが出来たのです。オウム達はびっくりして王の方を見る。オウムの王様は振り向いて
「貪りは、牢であり、網であり、毒であり、刃でもある。お前たちも早く食を断ち、抜け出すのじゃ。森で待っておるぞ。」
オウムの王様は、残る力を振り絞って空を飛びました。すると、外の人間の世界では、国王は肥りすぎで病気になり、次の玉座をねらって家臣たちが争い、猟師達は縄張りを争っていました。
「人間も、牢屋のオウム達も何も変わらぬ」
オウムの王様はそうつぶやき、森へ帰りました。
おしまい
このこの物語を読むたびに私は思うのです。オウムは私です。王も家臣も猟師も私です。痩せる努力をしようとしません。一旦決意しても長続きはしません。
この物語の最後には、オウムの王様はお釈迦様の前世であったと説かれます。お釈迦様が、貪りの愚かさを示しておられるのです。お釈迦様が、「食を断って檻を出よ」と言われます
が、こころの根深いものは動かしようがないのです。
親鸞聖人は、どうにもならない自らの煩悩や愚かさを直視され、悩み、苦しみ、そして、その身をそのまま照らす慈悲の光に気づかされました。阿弥陀如来の光です。阿弥陀如来は、別の名前で無礙光如来といいます。碍りの無い光です。私の煩悩が障りとならない仏様です。
この物語を読んで、オウム達も人間達も私であると気づかされる時、阿弥陀如来の無礙の光を有難く思うのです。
私はオウム、私は人間、私こそが目当て。恥ずかしく、有難く、もったいないが同居しています。私に届く弥陀の声が南無阿弥陀仏 なんともったいないことでありましょう