法話

親鸞聖人の神仏観

天真寺 西原龍哉

💚 10月の法話 💚

「困った時の神頼み」と言います。我身に不幸がふりかかると、何かの力によって助けてもらいたいと思うのが人情です。しかしそれが叶わないと、「神も仏もあるものか」とまるで神仏のせいでもあったかのように背を向けます。これでは、神様も仏様もいい迷惑でしょう。しかし、これがまさに道理のわからない私たちのすがたです。親鸞聖人は弥陀一仏の仏道を歩まれましたが、では神様とはどのように向き合われたのか、エピソードを通して考えてみたいと思います。


親鸞聖人は60歳を過ぎて、常陸国から京都に帰られました。しかし、常陸国にいる門弟たちは、自らが歩むべき往生極楽の道を聞かせていただきたいと、命がけで十余ヶ国の境を超え、京都の親鸞聖人のもとを訪れます。そのシーンが、『御伝鈔』下巻第五巻「熊野霊告」に描かれます。
主人公は、常陸国の平太郎です。聖人のみ教えを大切にする、仏法第一の念仏者です。平太郎は、領主から「夫役」を命じられました。「夫役」とは、実際に自分が働きに出て労働で納める税金です。現在、税金はお金で納めますが、当時は、布・昆布・材木など、さまざまな物で納める税金がありました。平太郎は、公務として、領主のお供をして熊野社に参詣しなければならなくなりました。仕事ですから、おいそれと断ることなどできません。
 しかし平太郎は、疑問を持ちます。「本願念仏のみ教えを聞く者が、熊野社に詣でて神様をお参りしてもいいのだろうか」。この問いの答えを求めて、親鸞聖人のもとを訪ねたのです。平太郎にとっては、「仕事を取るか、信仰を取るか」の大問題です。
親鸞聖人に尋ねます。「本願念仏のみ教えを聞き、念仏申す平太郎ですが、熊野(神社)に参詣しても大丈夫でしょうか?」。聖人は、「大丈夫ですよ。あなたの意志ではないのですよね。熊野権現は、阿弥陀如来が、すべてのものをもらさず救うため、かり(権)に現れ出た神様です」と答えられ、神様は元は仏・菩薩であり日本の衆生を救うために神の姿となって現れた、と本地垂迹説を説明されました。ホッと一安心の平太郎です。
その半年後、領主に従って、熊野社を訪れます。参詣の道中は、不浄を遠ざけなければなりません。しかし、平太郎は皆が行う精進をせず、聖人のみ教えのままに、普段のまま、その身そのままで参詣しました。さらに、皆が「南無証誠大菩薩」と唱える中、平太郎は「南無阿弥陀仏」を称えます。途中、土佐の船が難破して死骸が海岸に打ち上げられた時も、死の穢れを忌んで誰も近づかない中、平太郎は夜にまぎれてとり除きました。
やっと到着した熊野社の参籠所では、夜通し「としこもり」をします。中世には、歳末からお正月にかけて、熊野社の中で、おこもりをして祈祷をすることが、最も効果が大きいと信じられていました。平太郎は、独特な作法をせず、肘をついて気持ちよさそうに寝ています。その時、平太郎は夢を見ましたた。貴族の正装をした熊野権現が、平太郎に向かってメラメラと怒りの炎を向け、「お前はなぜ私を軽んじて、不浄のまま精進もせずに参詣して来たのか?」と厳しく問い詰めます。平太郎ピンチの瞬間、そこに忽然と親鸞聖人がお出ましになられます。熊野権現に対して、「平太郎は阿弥陀如来のお救いを聞きお念仏を申すものですよ」と仰いますと、熊野権現はその言葉に、「お念仏申す方でありましたか」と、持っておられた笏を正して、聖人を礼拝されました。
その夢を不思議に思い、平太郎は再び親鸞聖人のもとを訪ね、夢の話を伝えると、親鸞聖人は「そのことなら、それでよいのですよ」と仰いました。
このエピソードから、親鸞聖人のみ教えは、神祇を軽視するものではなく、むしろ神祇から尊重され、念仏者として護られるのだ、ということが分かります。


「御和讃」にも、次のように示されます。
天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり


【現代語訳】 天地の大いなる神々は、みな善鬼神と申し上げる。これらの神々はみなともに、念仏する人を護るのである。


南無阿弥陀仏をとなふれば  炎魔法王 尊敬す
五道の冥官 みなともに  よるひるつねにまもるなり

【現代語訳】 南無阿弥陀仏と称える身となると、炎魔王も尊び敬う。そのもとで罪を裁く地獄の役人たちもみな、昼夜を問わず、常に護るのである。


お念仏者である私たちは、さまざまな神様も恐れる必要はありません。念仏者として護られて生かされているのだという安心をお聞かせいただきます。コロナ禍が続き、戦争や災害と苦しみが多い世の中です。孤独や不安、悲しみや怒りを感じることはありますが、私のすべてをありのままに抱いてくださっている阿弥陀如来のみ心をたよりとして歩んでいきましょう。