住職の後生の一大事①
照光寺 脇本正範
💚 6月の法話 💚
死が痛切に迫ってきたら阿弥陀如来の言葉のお薬を飲みましょう。
みなさま、お元気でしょうか。築地本願寺の管轄下で 習志野市内の開教を担当して 十五年が過ぎました。宗教法人照光寺となり 築地の管轄は卒業しましたが さまざまなことを思い出します。なんだかんだ言っても とても良い人生だったと満足しています。
このお手紙は 老病死の苦しみが痛切で やりきれない思いでこころがいっぱいになり 八方ふさがりの人にむけて書いています。解決するためには 阿弥陀仏の言葉を聞くしか助かる道はありません。私自身、お医者さまから「死」を言いつけられて 身近に死が迫った経験があるので 間違いないでしょう。最近は死にかけた体験のある人と仲良くなるようになりました。死に対する恐怖と不安、どこにも逃げ場所がないという切迫感。この胸に痛切に迫ってきて仕方がありませんでした。解決したので今は安心です。切迫した心理状態で 安心して生きていく事は不可能です。
仏教は後生の一大事を解決することが目標です。切迫感を和らげるには 阿弥陀如来の言葉を直接聞くしか 逃れる方法がありません。親鸞聖人の言葉では 出離生死でしょう。法話を聞いて 阿弥陀如来の言葉に助けてもらうしかありません。究極のところ、他に助かる方法がないのです。このお手紙をよく読んで ご自身の「後生の一大事」を解決してください。
後生の一大事とは 自分がいったいどこからやってきて 何で生きているのか 何のために生きているのか、死んだらどこに行くのかという 自己の問題が解決することをいいます。死んだ後の救いではありません。自分が何者なのか正体がわかり 死んだあとの行き先がわかったら「助かった」ということなので 後生の一大事が解決した と表現します。助かったか助かってないかよくわからないのでは安心できません。人間に生まれたのですから 人生で一度くらいは 助かったと言えるかどうか こころの中で自分自身に問うてみましょう。いま解決しないと明日も明後日も解決しません。先延ばしにしている間に たいへんなことになったとなりはしませんか。
わたしが仏教を習った先生はたくさんいますが その中でも梯実円和上と大峯顕和上には ずいぶん助けていただきました。このお手紙で 少しでも皆様の「解決」につながれば良いと思いますので 梯先生と大峯先生のお言葉も交えながら書き記しておきます。
梯実円和上の「何もしない人間に自力と他力がわかるはずがない」が有難かった。
お医者様から「このままだとあなたは死にます」と言われたとき 非常に動揺しました。いてもたってもいられなくなり 思考が定まらず 痛切なる恐怖と後悔の念に襲われました。浄土真宗の教えを聞いているので大丈夫と思っていましたが 勘違いだったようです。その日から常日頃思い起こし自分の信心が自力か他力かどちらなのかチェックしています。自分の頭で考えた「解決」は本当の「解決」につながりません。死に対する恐怖心を軽くするには他力でないとダメです。元気で健康な状態で考えている「死」は怖くないでしょう。ちっとも怖くないようなそのような「死」は妄想です。他人の死にゆくさまを見て あの人の死がわたしの死だと思い違いをして こざかしくわかったような気になっていました。
その人のこころを見たわけでもないのに「これが死だ」とわかったような気になるのです。動かなくなって火葬して骨になる。それで何もなくなったと勘違いしていたことが良く分かりました。この知ったかぶるこころが真理を通さない自力のこころです。自分が死の断崖に立ち 痛切な恐怖心に襲われたら 自分の心が阿弥陀如来の言葉を信じていたのか 自分の考えを信じていたのかはっきりします。自分自身がこしらえた思いだから簡単に変わります。痛切なる恐怖心の中で死にたくないという思いで一杯になっている。そのような気分では死んでも死に切れないでしょう。
痛切なる死への恐怖心を目前にしても平気でいられる言葉。なくならない言葉があった。恐怖心でいっぱいのお前を見捨てないと常にいっしょにいてくれる言葉があった。決してなくならない阿弥陀如来の言葉をいただくことが他力です。自分自身の思いや言葉を信じるのではなく阿弥陀如来の言葉を信じる。それが助かったということです。それしか助かる道はありません。
(来月に続く)
画像は【三越創業350周年】いけばなの根源池坊展 「とらわれのない美」 東京花展より