浄土真宗本願寺派 浄土寺
『訪れた人が心が安らぐ寺』でありますよう
浄土寺の鐘銘の終わりに次のように記されています。
何事もひたすらに阿弥陀如来のお導きによるものである。このご恩は海よりも広くはかることができない。これからも僧侶とご門徒が心を一つにして親鸞聖人のみ教えを守って行けば平和な世の中になるでしょう
創建当時からのこの思いを、伝えていきたいと思っています。 どうぞお気軽にお立寄りください。
浄土寺の歴史
万治元年(1658)、一矛屋をこの地に結び、同志三、四輩相集り、法義相続の所とす。寛永5年(1628)河内国丹北郡西野村の産、石橋九兵衛、当佐原村に来り住む。同人、本宗教義を仰信する事特に深く、常に道場無きを感じ、一寺を創立せんとし、本廟に請願すること十三回に及ぶ。法主その志、堅貞なるを賞し、鹿児島で廃寺となった浄土寺という寺号を賜る。本堂 亙葺木造 間口・奥行七間
『浄土寺縁起』より
開基は1658年(万治元年 関ヶ原の戦いから58年後)。
「小さな茅葺の小屋を建て、真宗の門徒である3、4人が集まって、み教えの道場とした」と文献にあります。
その3、4人の1人が石橋九兵衛という人でした。
この人は1628年(寛永5年)河内国丹北郡西野村(現在の大阪府松原市)から佐原に移り住んで商売を営んでいました。真宗の教えに熱心なご門徒で、佐原に真宗の寺がないことを大変嘆き、この地に寺を創建しようと思い立ち、京都に13回も赴き、約30年後にやっと願いがかない『浄土寺』という寺号を賜りました。
この『浄土寺』という寺号は、もともと九州薩摩の国(現在の鹿児島県)にあった寺のものです。しかしこの寺は1580年頃藩主島津(石曼子)候の弾圧に遭い、つぶされてしまいました。残念なことに、この寺の場所も歴史も不明です。でも寺号だけは、京都の西本願寺に納められていました。この薩摩の浄土寺を再建するという形で、佐原の『浄土寺』が生まれたのです。
そしてその後、江戸時代に隆盛を極めたこの佐原の地で、その繁栄と共に歩んできました。
現在の本堂は、開基より120年後の1778年(安永7年)に建立(瓦葺木造 間口・奥行七間)され、その後瓦葺屋根を銅板葺に、又内陣修復、格天井絵新調等々さまざまな改修を経て現在に至っております。
梵鐘・鐘楼
浄土寺の梵鐘・鐘楼は1786年(天明6年)に造られました。
1943年(昭和18年)戦争のため、梵鐘は貴重な金属として供出されてしまいます。供出時にご門徒の石橋喜逸氏が梵鐘に刻まれていた浄土寺縁起が書かれた鐘銘を書き写してくれました。
2008年(平成20年)ご門徒達の懇願により再興した梵鐘に当時の鐘銘を刻み、当初の面影を偲ぶものとなりました。
そして、2010年(平成22年)ご門徒の辻光雄氏の手による鐘楼の天井絵、欄間飾りが完成。天井は本堂と同じ、格天井となっていて千鳥格子状に、親鸞聖人の御絵伝の中に描かれている花々が、散りばめられています。
欄間は4面で四季を表しており、それぞれ季節の花々や、風物が彫られています。
そして、各欄間中央の4体の愛嬌のある童子(童子のみ八州作)は、浄土寺に来た方に笑顔になって欲しいという願いが込められています。