浄土真宗千葉組

千葉県にある浄土真宗本願寺派(お西)の活動を紹介しています。

3月法話「不可思議な世界」

3月法話「不可思議な世界」

「不可思議な世界」

 

大願寺 横田裕晃

 

先日、家族でディズニーランドに行ってきました。そこにはミッキーマウスというかわいらしいネズミのキャラクターが出迎えてくれました。

一日遊び、家に帰ってお風呂に入ると、子どもたちが「お父さんのおでこにもミッキーがいる」と言うのです。最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、私のおでこを見て、言っていました。そう、私のおでこの髪の毛の生え際が上がり、ミッキーの耳の形に見えたそうです。私のそれはミッキーほどかわいくないですが・・・

 私は好き好んでおでこをミッキーにしているのではありません。私の意志とは関係なしにミッキーになっているのです。私のおでこと思っていながら、私の思い通りにならない。はたして私のおでこなのでしょうか?私とは何なのでしょうか?

 皆さんは自分自身について考えたことはありませんか?自分の力でこの世に生まれてきたでしょうか。 「今から出ていくから待っててね」といって生まれてきた人はいないと思います。気がつけば私として生きていたのです。いいかえれば、自分で自分のいのちをつくった人は一人もいないと思います。もしできるのであれば、私はもっと身長を高くしたり、顔をかっこよくしたり、性格を良くしたりしたいものです。しかし、思い通りにならないのです。私のものだと思っているけれども、私の力、私の意志では思い通りにならないのです。それを仏教では我にあらず、「非我」「無我」というのです。

そして私は、自分の意思によらないでどんどん変わっていきます。これを「無常」というのです。無常というのは、常ではないということで、たえず変化するということです。私の意志によらないで、勝手にどんどん変わっていく、そうすると、これは自分の思うようにはなりません。思うようにならないこと、これを「苦」というのです。どんどん自分の意志に関わりなく変化をし、思うようにならない。そのような世界に私たちは存在しているのです。私たちはいったいなぜ存在しているのでしょうか。

阿弥陀如来という仏さまは、思うようにならずに苦しんでいる私を、思うようにならないことを思うようにしようとして苦しむ私をすくいたいと仏になられたのです。この阿弥陀如来のすくいのはたらきを親鸞聖人は「不可思議」と言われました。思議すべからざるはたらきにおいて、一切は存在するのです。私も、皆さんも、自分の意志でも、自分の力でもない、不可思議きわまるはたらきにおいてはじめて、いのちを与えられ、体を与えられ、心を与えられ生きているのです。不可思議なはたらきによって生かされているのです。そしてそれは、私一人のいのちがそうなのではなく、一切すべてのものが、不可思議なはたらきの中にいるのです。

 ディズニーランドは夢の世界ですが、われわれは不可思議な世界に生かされているのです。その不可思議なる世界にめざめて、我あり、我がものあり、我が力ありという、とらわれの心に気づき、あらゆるものを尊ぶ心を恵まれて、人間のもっている自分さえよければという我執を翻して生きよとはたらきかけられているのです。

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