銀杏
法話

人間は偉いものではない、尊いものなのです。

 💚11月の法話💚 

宗真寺前住職 石川慶子

宗真寺の門前に一本のいちょうの大木があります。秋が深まるにつれ色づいて、ちょうど11月末の報恩講のころに、まるで光を放っているような黄金色に染まります。それより前から銀杏の実がしきりに落ち出し、風が吹けば地面は敷きつめたかのように銀杏だらけ、うっかり歩くこともできません。小粒の実は拾い手もなく、私たちには困りもの。毎朝ひたすら掃いて、木の根もとに積み寄せておきます。

 季節が移ると、何とその夥(おびただ)しい量の実が一斉に芽をふき、気がつけば一人前の葉をつけた10センチばかりのいちょうの木になっている。何百何千本のチビいちょうの森ができるのです。その一本一本のうちに、親木と同じ大木になっていく“生命(いのち)の力”が備わっているのでしょう。

 けれども実際には、寺の門前がいちょうの大森林に占領されるという心配はありません。ここの10センチのチビいちょうには大木に育っていく“縁”がないからです。

 生物学者、福岡伸一さんがこんなことを書いていました。『私たちの生命は、どんな風土のもとに誕生するか全く分からないし、誕生後どんな外敵にさらされるか分からない、病原菌やウイルス、化学物質……みな想定外の事態。それに対し“私たちの生命の側”はDNAの組み換えや積極的な変化によって、百万通り以上の抗体を準備して受けて立つ。この中のどれかが、いざという時に役立つようにと。大半の抗体は、出番のないまま終わるのだ。つまり“生命”は大過剰と思える程の準備をして誕生する。だからこそ様々な風土に適応し生き抜いていく』

 科学にはとんと疎(うと)い私には、門前のいちょうと福岡博士の話が、“大過剰”の一点で結びついてしまいました。ひとつの生命体の背後に、大過剰ともいえる程の生命の働きが広がっていた、という驚きと感動。

 私たちはいわば、たまたま得がたい縁を得て大きくなれたいちょうの木です。数限りない生命の形態がある中に、「人」として生まれ育ってきました。そしてこの私の生命が誕生するには、周到な、生き抜く為の準備が既になされていたのです。(ここで触れた抗体の話は、その準備のほんの一例に過ぎません)

 この“縁”の貴重さと、生命の不思議さをすっかり忘れて、私たちは、親に産んでもらい自分で生きてきた、と思ってしまうのではないでしょうか。

 私の外にも内にも満ちている大いなる力―――「はかり知れない無量のいのち(・・・)のはたらき」としか言いようがありません。

 「人は偉いものではありません。でも尊いものです」という安田理深師のことばにうなづくばかりです。