人生を旅する
法話

9月法話「人生を旅する」

「人生を旅する」

    了源寺住職 山名 義一

よく人生は旅と云われます、長いたびの人、短いたびの人、一人ひとり違った旅をしているのですが、本当に旅をしている人は、ほんの一握りの人だけではないでしょうか。

 

行き先の無い旅で思い出すことは、30年位前のことですが、本山で1泊2日の研修会に出席したときの事です。当時の私は何時も宿泊先を決めずに、当日、本山を通してホテルを取ってもらっていました。しかし、「女子駅伝と重なり、何処も満室で・・・」と本山職員からの一言で、気持ちは研修会どころではありません。

当時は、携帯電話も無く研修会終了を待たずに、重い荷物を持ち本山から京都駅まで旅館、ホテルを一軒一軒尋ね歩き、ようやく駅の案内所で紹介して戴き宿泊先は確保出来たことを思い出します。一人では、重い荷物はさらに重く、泊まれるのか不安が足取りを重くします。

 

旅とは、行き先が在るものではないでしょうか。行き先が在る安心です。

 

多くの人は「死んだらおしまい」とは、行き先が無いのです。それは、旅とは云わず「放浪」です。

ただ死ぬ為に生まれ、ただ死ぬ為に苦労し、ただ別れる為に出会う・・・虚しい人生では?

 

ただ、虚しい人生で終わらせないと私に希望を与えて下さったのが、阿弥陀様です。

西方極楽浄土を、私の人生の行き先をご用意くださり、分かれ道が多く、一歩先は見えない

一人旅では心細かろうと、私と朋連れの旅をしてくださっています。           南无阿弥陀仏