10月法話 一茶との出会い
「一茶とのであい」
最誓寺住職 堀田了正
小林一茶といえば、「我と来て遊べや親のない雀」「痩せ蛙まけるな一茶是に有」「やれ打つな蠅が手をすり足をする」といった、子どもたちでもよく知っている、親しみやすい句を詠んだ江戸時代の代表的な俳人です。一茶は、生涯二万句に及ぶ句を詠んだといわれています。その中に、浄土真宗のみ教えに裏付けられた句が随所に見られることを知り、浅学な私にとって、新たな一茶を発見した驚きと出あえた喜びを感じた次第です。
ご法事や研修会などで、一茶の句をいくつか紹介し、お話しすることがあります。皆さんも、以前の私と同じように一茶はユーモラスで、庶民的なわかりやすい句を詠まれた俳人であるとは知っています。しかしながら、一茶が浄土真宗の門徒であり、晩年聞法に励み、真実信心に基づいた多くの句を作出された俳人であると知っている方は、少なかったようです。そこで、今回は、「一茶とのであい」と題し、一茶の詠まれたいくつかの句をご紹介したいと思います。
一茶は、家庭的に恵まれていたとはいえず、10年にわたる遺産争い、持病のおでき・中風等に終始悩まされ、そして、当時の俳諧の世界での軋轢と相まって、苦難の生涯であったといえます。その一茶が、一茶の俳句の特徴である、「庶民性」「軽妙性」「滑稽性」に富み、それでいて人情味に溢れ、そして、東京大学名誉教授であった早島鏡正先生の言葉を借りれば、「その庶民性の中に真理性とかあるいは宗教性といった高貴なものが隠されている」という句を多く詠まれた「秘密」は、どこにあったのでしょうか。
父の死後、遺産相続争いのすさまじさ、そして、妻を迎えた後の一茶の心を比してみると、「念仏一茶」といわれるように、より一層の深化が見受けられるようになります。妻をめとり、最愛の子どもたちの夭折や妻との相次ぐ離別という逆縁を経て、聴聞(ちょうもん)に励み真実信心の世界に出遇っていったといえます。また、柏原という地で培われてきた、念仏の風土の中で育てられ、父弥五兵衛の信心に生かされていった姿を通じて、体現されたといえましょう。このことは、次の句によく表されていると思います。
◆熱心にお寺参りをし、聴聞に励んでいた一茶・・・
「本堂にぎつしりつまる藪蚊哉」
(藪蚊におとらず本堂一杯に熱心に聴聞する門徒たち、わたし一茶もその一人・・・)
「なむあみだ仏の方より鳴蚊哉」
(耳障りに思える蚊の羽音も、阿弥陀如来のお呼び声に聞こえます・・・)
◆小さな生き物に注ぐ優しいまなざし、み仏の心・・・
「堂の蠅珠数する人の手をまねる」
(本堂にまぎれて入ってきた蠅。おまえも法話を聴聞しにきたのか。合掌して・・・)
「蠅一つ打てはなむあみだ仏哉」
(むだな殺生してはならぬと聞いてはいたが。慚愧の心・・・)
◆諸行無常の世と聞かせていただいてはいたが・・・
長女さとが初めて迎えた元旦に次の句を詠み、健やかな成長を願う一茶でした。
「這へ笑へ二ツになるぞけさからは」
しかしながら、さとは、6月に天然痘で急逝します(生後1年2ヶ月)。そして、「露の世は露の世ながらさりながら」と吐露します。
◆わたしにとどいた弥陀の慈悲・・・
「涼しさや弥陀成仏の此のかたは」
(「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」 浄土和讃 親鸞聖人)
「ととさんやあのののさんがかかさんか」
◆愚の自覚・弥陀の救いの確かさ、歓び・・・
「春立つや愚の上に又愚にかへる」(一茶 還暦を迎えた元旦の句)
阿弥陀仏の光明に照らし出されたわたしは、「愚か者=煩悩具足の凡夫」と知らされます。「愚」の自覚は、天台宗を開いた最澄も「愚が中の極愚」、良寛も「大愚良寛」、親鸞聖人ですら「愚禿親鸞」と名のられています。人は往々にして我慢(俺がオレがの慢心)、「俺は賢い」と誇示しがちです。しかし、本当の賢者は、「愚」という表明がおのずとできる人ではないでしょうか。親鸞聖人のお言葉にも「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮(こけ)を懐ければなり」(愚禿抄 ぐとくしょう)とお示しくださっておられます。39歳の時、父を看病していた頃、それから10年にわたり遺産相続争いをしていた通俗的な一茶が、この「愚」の自覚ができるまでには、その後の20年という長い求道生活があったからではないでしょうか。
合掌
【参考資料】
- 『一茶発句全集』
長野郷土史研究会 小林一郎編
- 『念仏一茶 そのやさしさの秘密』
元東京大学名誉教授 早島鏡正著 四季社
- 『人生の悲哀 小林一茶』
黄色瑞華著 新典社