大遠忌
法話

三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)

福田寺住職 藤崎史観

 💚6月の法話💚 

1、『のりへずは、三毒の超越か』

70(古稀)になりまして、頭の中に浮かんだのは、孔子の論語の「70にして心の欲する所に従えども、矩を踰へず」の言葉でした。「矩を踰へず」とは、『思いのままに振る舞っても、度を過ごさないようになった』とのことです。私自身思いのままにふるまったら、どうなるかわからない。具体的にはどういうことなのか。すると、仏教用語の「三毒」という言葉が、今度は浮かんできました。

 三毒とは、ご存知のように

 『貪欲(とんよく)=自己の好む対象に向かってむさぼり求める心をおこすこと。』

 『瞋恚(しんに)=憎しみ怒り、心が安らかでないこと。いかり、腹立ち』

 『愚痴(ぐち)=真実の道理に無知な事。まことのすじみちが分からないこと』です。

 私たちの日常は、三毒が抑えられず、自分に、妻に、友に、ときには全く見知らぬ人に、欲望、怒り、羨望・愚痴等の感情をぶつけることがあります。そして、自分自身、悩み、苦しみます。「矩を踰へない」とは、仏の教えの、「三毒の煩悩の超えることなのか」と、思いました。

2、『親鸞聖人の三毒』

 親鸞聖人は、ご消息(お手紙)の中で、三毒について

  「そもそもみなさんは、かつては阿弥陀仏の本願も知らず、その名号を称えることもありませんでしたが、釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。以前は無明の酒に酔って、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒ばかり好んでおられましたが、阿弥陀仏の本願を聞きはじめてから、無明の酔いも次第に醒め、少しづつ三毒を好まないようになり、阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。」

 聖人のお手紙は、まさに今の私を指し示していました。この年になり、寺に常住している身となり、「少しは阿弥陀仏の薬(本願)を好むようになっている」のです。が、私の日常生活は、薬(本願)が、三毒の毒消しにはなっていません。恥ずかしいかぎりです。

3、『少欲知足は、三毒を越えるか』

 「大経」には、『少欲知足にして染(せん)・恚(い)・痴(ち)なし』(欲が少なく、足りていることを知って、貪り、怒り、愚かさをはなれる)とあります。「三毒を越える」根本には、この「少欲知足」と聖人が申されました「阿弥陀仏からの薬(本願=摂取不捨)をいただいている」ことがあると、受け止めました。

 ここ1年ほど文通している「老子」を勉強している方が、大経の「少欲知足」の言葉から、『抑制なく限りない「欲望」をもつ人は、自然との共生に畏敬の念を持たず、また、自然に対し恐れを抱くこともなく、唯々無礼な所為のみ繰り返す。それ故「傲慢」な価値観を持つだけの人となる。自然を怖れ、謙虚、控えめに振る舞うことを旨とする人は、「欲望」少なく、「満足」を知る人なり、平穏な安らぎを得ることができる。』と書いてこられました。

 この方の言われるように私たちは、生きるうえで「生きとし生けるもの」から、大きな恩恵(命)をいただいています。その事実を受け入れ、「欲少なくして、足ることを知る」の生活は「三毒を越え」、聖人ご消息の「仏のご恩を心に思い、それに報いるために心を込めて念仏し、世の中で安穏であるように、仏法が広まるようにと思われるのがよいと」につながると思いました。

 心を込めて念仏し、その恩徳に感謝して、聴聞につとめたいと、思う日々であります。

合掌

コメント

最誓寺 堀田了正
2015-06-03 @ 7:56 AM

さすが、国語科の先生でもありますね。今月のご法話学ばせていただきました。
追伸 真光寺様2法要(住職継職奉告法要・本堂及び客殿改築慶讃法要)執り行われまして、つくづく南葉会の団結力の素晴らしさを、感じされられましたね。合掌



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