照光寺
法話

これさえあれば

照光寺住職 脇本正範

 💚6月の法話💚 

私は、会社員の息子として生まれ、祖父が広島のお寺を営んでいます。社会人になり、浄土真宗のお坊さんになることを決めてからわたしにはいく場所もかえる場所もありませんでした。当時、祖父のお寺の本堂から見える境内の景色が大好きだったので何時間でも時間の許される限り縁側に座っていたものです。

 わたしはいつの日かどこかのお寺の住職になって「自分自身がそこにいてもいい場所」「そこに存在していても許される場所」をつくりたいと思いながら境内を眺めていました。また、誰かに「奪われたりしない」確かな場所を作るためにどんな道があるのか探し続けました。

 そのような日々のなかで新しくお寺をつくる仕事があることを知ります。中央仏教学院の特別授業でした。当初は挑戦する勇気がなかったのですが、菓子折りを一つ買って、築地本願寺の門をくぐり、都市開教対策本部と書かれている部屋のドアをノックしました。

ドアを開け自己紹介をします。

「備後教区世羅組照光寺の衆徒 脇本正範です。新しくお寺を作っていく仕事がしたくて参りました」と大きな声で挨拶しました。

 丸坊主の職員さんが来て「ここは少林寺ではないぞ」「何のアポもなしに来て採用されるはずがないやろ」とお叱りのお言葉を頂戴しました。

 それでも、いく場所もかえる場所もないわたしは必死になって「お願いします」と頼み込みました。

 「お前、おもろいな。話だけでも聞いたろ」

 都市開教という仕事に携わる四年前の話です。

都市開教とは「浄土真宗本願寺派のお寺のない地域に新しくお寺を作っていく仕事」です。何もないところから本堂を造りあげ門信徒数0人から「仲間」を増やしていく仕事はとてもやりがいがあると教えていただいたことを思い出します。

それから8年後、照光寺は新しく土地建物を購入するという目標を達成します。

落成慶讃法要で本堂に入堂するお坊さんの背中を見た時「この人がいてくれたからこそお寺ができたのだ」という思いで胸が一杯になりました。また、「この人がいなかったなら」と思った瞬間、涙が止まらなくなりました。

あなたにとってのこれさえあれば生きていけるものは何でしょう。

 大工さんであれば自分が使っている「大工道具」。この道具さえあればどこでも生きていけるという思いが生じるでしょう。

料理人であれば「包丁」と「料理の腕」でしょうか。「この包丁」と「料理の腕」があればどこでも生きていけるという思いになるに違いありません。どのような環境であっても世間で生きていくにあたって「わたし」にとって「これさえあれば生きていける」何かがあるはずです。

いく場所もかえる場所もなかった「わたし」にとって「これさえあれば」の「これ」は「お念仏」でした。どのような状況になったとしても「だいじょうぶ」この如来さまがいらっしゃるのだから「だいじょうぶ」と阿弥陀様はいつでも「わたし」といっしょに歩んでくださいました。これこれ、この如来さまがいるから「だいじょうぶ」だ。生きてもいけるし死んでもいける。

この念仏を味わえる場所として、習志野の地に照光寺を建立させていただきました。わたしにとって、ついにいく場所、帰る場所が定まったのです。

お世話になった「あの人」も大好きだった「この人」もみんな、わたしといっしょにこの人生を生き抜いてくださいます。みなさまの「これさえあれば」の「これ」はいったい何でしょう。行く場所も帰る場所もわたしが考えるよりも先に整えて、わたしたちの一生を阿弥陀様はともに歩んでくださいます。