阿弥陀様の切ない願い
高林寺住職 菅原智之
💚7月の法話💚
□神戸大空襲と阿弥陀様
本来阿弥陀如来は金色に輝くお姿の筈ですが、当寺の御本尊は黒いお姿です。
それには以下のような悲しい謂われがあるのでした。当寺へお越しになる前は、兵庫
県芦屋市の御本尊だったのです。
1945年3月17日と6月5日、阪神地域は激しい空襲を受け、五大都市では最
悪の被害となりました。「ガラスのうさぎ」(野坂昭如作)はその悲劇を元に描かれて
います。8800余名が死亡し、15万人が負傷、焼失家屋15万戸。それは正に、
エゴとエゴがいがみ合いぶつかり合った末の悲劇でした。
芦屋の御住職は阿弥陀様を地中に埋め、本堂は焼失するも難を逃れました。しかし
地表の熱で黒色化。
阿弥陀様は地上の地獄絵を、人々の叫びと絶望と怨みと涙を、そして人間という存
在の悲しみを、その黒いお身体に刻みつけたのでした。
縁あって前住職が譲り受け、松戸の当寺へお越しくださいました。そしていつまで
も「何処までもエゴを振り回す、煩悩愚足の凡夫を必ず救う」と、願いつづけおはた
らき続けてくださるお姿であります。
□エゴの方程式
4月は北朝鮮とアメリカが一触即発。間合いをつめる米空母部隊。「ミサイルが飛
んで来るぞ!」と警報が鳴り「戦争はこうやって始まるのか」とさえ覚悟しました。
結局人類の進歩とは、兵器のことだけだったのか…。「やられる前にやってしま
え」という意見についつい同調してしまうお互いではなかったでしょうか。それに
よって引きおこされる惨劇には目を瞑って。
「我が身可愛さの煩悩」を抱えた我々は、究極的に「私の為に、あなたは犠牲に
なって…」という方程式から離れられません。悲しい我が姿です。
□宗教という理念
仏教の平和観を、開祖お釈迦さま(紀元前460年頃~380年頃)の言葉から紐解
いてみます。
すべての者は暴力におびえる
すべての者にとって生命は愛おしい
それがゆえに
自分の身にひきくらべて
殺してはならない
殺さしめてはならない
―ダンマパッダ
仏の教えが行き渡る所は「兵戈無用(ひょうがむよう)」
兵士も武器も必要なく、抑止力も不要である
―無量寿経意訳
でも現実世界は暴力が蔓延しています。「だから現実的に武器は必要であって、
『殺してはならない』や『兵戈無用』は所詮「建前」でしょうという」という思いが
無いと言ったら嘘になります。
「建前」とは、家屋の建築で棟や梁などを組み立てること。
社会に当てはめれば、その骨格となるのは理念である。(中略)
安定した社会は、「平等」「自由」「正義」といった理念の上にしか成り立たない。
「これを崩したら社会はもたない」という危機意識に裏打ちされていなければ「建
前」はもたない。
だが、そういう意識の共有がおそろしく難しくなっている。
哲学者 鷲田清一さんの言葉
「宗教という理念」。それを失うと、「我が身可愛さの煩悩」を抱える自我は必ず増
長します。「理性」も、その私から出でるものですから、基準値は簡単に上下し全く
当てになりません。そして自我がぶつかり合う悲劇を人類は繰り返してきました。
□お慈悲にお育てを戴く
仏教では、傷つけあう世界を「娑婆(しゃば)=堪え忍ぶ世界」と呼びます。その
娑婆に住む私に届く救いの光。それは「全ての命は、お浄土へ生まれ仏となる尊きも
の」と「平等」にはたらく阿弥陀如来の願い。「南無阿弥陀仏」と、私の言葉に成っ
てくださった仏さま。自分の都合ばかりをまくし立てるこの口から出てくださいま
す。そしてそのまま私の耳へと届いてくださいます。「あなたを必ず救う」と。
煩悩具足の私のために阿弥陀様の悲しみと救いのはたらきがあったと
そのお心を聞かせて戴くとき、大いなる温もりの中であったことが知らされます。そ
れに出遇うところに、育てられ、促され、「このままの私では駄目だ」と目覚めて行
く歩みが始まります。共に如来のお心を聴聞して参りましょう。 合掌