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法話

本願のかたじけなさよ

弘教寺 小林 覚城

 💚4月の法話💚 

 浄土真宗の仏様は私が南無(帰依、信順)することまで仏の側で仕上げ、既に「南無阿弥陀仏」となって下さっています。私が仏を信じることまでも仏様のお仕事なのです。浄土真宗においては信じることは私の側の問題ではないのです。

「あなたはあなたのまま、そのままで良いのです」

…阿弥陀仏がそうおっしゃっておられます。

 この言葉を頂いて、私の心は安堵の思いで満たされます。

 御法話などで時々お聞きすることがありますが、この御文は私の調べた限りではいずれの経典に表されたものか分かりませんでした。

 ならば、経文そのものというよりは阿弥陀様の御心を私達にわかりやすく解説されたお言葉と頂くべきでありましょう。

「そのままで良い」とは文字通り「そのまま」です。

「なんだ、いろいろと悩んでいたけれど、私はこのままで良いんだ。悩まなくって良かったんだ」といった受けとめ方をされませんでしたか。

 それは、阿弥陀様の御心を「そのまま」頂いた姿ではありません。

「そのままで良い」とは文字通り「悩み苦しみを抱えたままのあなたで良い」ということです。

 ずいぶんとがっかりされたかも知れません。しかし、阿弥陀様の御心を伺えば「どうであっても、今のあなたのままで良い。そんなあなたをすくうよ」となるのです。

 私は私の思いで、物事を受け止めます。都合の良いように解釈するのです。

だから阿弥陀様は私の心は否定せず、汲んで下さいながらも、決して私の心を当てにはしません。「私は阿弥陀様を信じます」という私の心をも当てにされないのです。

 なぜ阿弥陀仏は私のすくいを約束されたのか。それは私が「それほどの業をもちける身」(歎異抄)だからです。「欲望も多く、 怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起こり、まさに命が終ろうとするそのときまで止まることなく、 消えることなく、 絶えることもない」(一念多念証文)存在だからです。そんな身の事実に気付かれ、おすくいを頂かれた親鸞聖人は「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(すくおうと御決意下さった御本願のなんともったいないことであろうか)」(歎異抄)とおっしゃいました。「煩悩具足の凡夫」(歎異抄)…私には煩悩しかないからです。

 阿弥陀仏は私の命、人生を全てお見抜きです。苦悩に沈む我、私は「楽しい生活」だけを求め、自身の苦悩に目を背け続けています。我のすくいになど興味を持っていません。苦悩の事実に気付こうともしない我という存在こそが、勿体なくも仏をして「この者を何とかしてやらねば…」とすくいのおはたらきへと駆り立てるのです。その大きなる御心を大慈悲心と申します。

 仏様の御慈悲は、我が煩悩、我が身の事実の中にこそ味わわせて頂きましょう。

 私の日々の苦悩を見抜かれたが故に、阿弥陀仏はおはたらき下さるのです。煩悩を捨てられず、煩悩故に苦しむ私です。煩悩の中にこそ存在して下さるのが御仏です。だから仏を頂く、仏に出遇えるのは正に私の苦悩の日暮らしにおいてなのです。

 「お願いだからすくわせておくれよ」とまで阿弥陀仏はおっしゃいます。私のすくいを間違いなく定めた上で…です。この私に、阿弥陀様は何とかしてすくいを告げたいと願われます。はたらかれます。お声の限りに私を呼び続けられます。

 「悩み苦しみを抱えたあなたこそが、心配でたまらない。そのままのあなたをすくう。必ずすくう。悩み苦しみの無い浄土の仏とせしめる」が阿弥陀様の大慈悲心です。

  どうにもならない私を、何としてでもすくう阿弥陀仏。

  唯々、仏様に御礼申しましょう。南無阿弥陀仏