限られた時間の中で
照光寺 脇本正範
💚7月の法話💚
余命宣告を受け闘病なさっておられたご門徒さんのご遺言があり、最後の一年間の様子をご法話にしてほしいという思いを引き継ぎましたので掲載します。
全人的苦痛とは
1.身体的苦痛
2.心理的苦痛
3.社会的苦痛
4.スピリチュアルペイン
1~4までの苦痛を緩和することを全人的苦痛といいます。
お寺やお坊さんの役割は4番目のスピリチュアルペインに該当するそうです。スピリチュアルペインとは人生の意味・罪の意識・苦しみの意味・死の恐怖・価値観の変化・死生観に対する悩みに関するこころの痛みのことです。
今から3年前にそのご門徒さんに出会いました。火葬している時に余命宣告を受けて治らない状態だったことを知りました。終末期の緩和ケア病棟に通院するようになったのが1年前のことです。
ご門徒さんは余命宣告を受けたときに死を受け入れることができずに不安や鬱状態に陥り激しい怖れと怒りのなか自死をしてしまいそうな状態まで追い詰められてしまったそうです。
「このままだと死んでしまいそうだ」とお医者さまに助けを求め心療内科で心理的苦痛に関する痛みを緩和することになりました。
同時に現役の銀行マンでしたから社会的な苦痛(仕事上の問題や家庭・経済的な問題)も生じていたとのことでした。
抗がん剤の治療を続ける中でもご門徒さんが求めたものがもう一つあります。それが4番のスピリチュアルペインをどのように解決するかということでした。人生の意味や死生観、苦しみの意味を緩和するためにあらゆるお寺をインターネットで調べ上げて通うことができる浄土真宗のお寺を探し続けたそうです。
当時わたしはお寺のご法座で『浄土真宗の教えでは死が単純な終わりであるとは考えません。救済活動の主体(仏・如来)として新しいいのちの出発をする瞬間を往生といいます。また、浄土(真実・さとりそのもの)に生まれる(往相)と同時に残された者のところまで姿かたちを南無阿弥陀仏と転ぜられて還ってきます(還相)。
それ故に亡き方々は「いつでもどこでもいっしょの仏様」と味わうことができるのです。また臨終を迎えるまでの間、日常生活で称える南無阿弥陀仏は仏になることが決まった証拠ですから「死後の心配」をする必要はありません。皆様お一人お一人が臨終を迎えたら往生即成仏。いつでもどこでもいっしょの仏様となって残された者の「いのち」に宿りその「いのち」に同化して私たちの人生をいつでもいっしょに歩み続けてくださいます』というご法話をしていました。
死を目前にして「そうか。新しいいのちの出発をすることができるのだ」という思いを抱かれたご門徒さんのこころに真の安らぎが生み出されたに違いありません。
人生の意味や苦しみの意味が問われ自分で自分のことを救うことができそうにないときに「いのち」のよりどころとなるものを持つということは闘病する本人と見守るご家族の生活の質を向上させるためにも必要なことであると同時にお念仏のおいわれを聞き、南無阿弥陀仏と称えつつ過ごすということは「死が不安に満ちた闇黒の世界」ではなく「光に満ちた真実の安らぎの開けである」と転ぜられていくと味わうことができます。
限られた時間の中で南無阿弥陀仏と称えることのできるよろこびを噛み締めています。