法話

阿弥陀さまのまなざし

中原寺 平野俊斉

 💚9月の法話💚 
先日、あるニュースを目にしました。
 それは長野県上高地のキャンプ場で50代の女性がクマに襲われたというものです。1人用テントで寝ていたところ、夜中にテントが引っ張られるのを感じて目が覚めたたそうです。女性が大声を上げると、テントは一瞬のうちに引き裂かれ、テントごと20メートルほど引きずられました。女性は隙をみて近くのトイレの建物に逃げ込んで助けを呼んだそうですが、逃げる際にクマの爪で足に8センチほどの裂傷を負いました。テントの中にあったレトルトカレーなどの食料はすべてクマに食べられていたそうです。クマはその後、捕獲されたというものでした。
 記事を読んだだけでも、身の毛がよだつほどの思いをしたので、被害に遭った女性の恐怖たるや、どれほどのものだったかと想像しますし、クマによって負わされた傷の痛みもかなりのものであったでしょう。さぞや襲ったクマを恨んでいるのかと思いましたが、その女性は「クマに恨みはなく、むしろ申し訳ないと思う。地元の人は『山は雨続きで食糧不足だったはず』という。人間の食料の味を覚えたクマとの共存は難しいと聞いた。」と話されていました。被害に遭って幾日もたっていないのに、その女性はクマに対する憎しみを口にするどころか、自分を襲ったクマを思いやる言葉を残しています。
 実際に今年は梅雨が長引き、本来クマのエサとなる木の実などが減っていたそうです。また、一度人間を襲って食料を奪ったクマは人間や車を警戒する対象から、食べ物を連想する対象に変わってしまい、人間を襲い続けるそうです。
 この女性は人間の利用しているキャンプ場にクマが現れて、人間の食料を奪ったという見かたをしているのではなく、もともとクマの生息地であった場所に人間が侵入してきて、必死に生きているクマの生態系を崩してしまったという思いがあるからこそ、あのような言葉が出るのでしょう。ものごとをどの視点から見るのかによって、感じかた・捉えかたは全く変わってきます。
 私たちは常に「自分を中心として」という視点を最優先にして生きています。自分中心に物事を見ていくと、「自分にとって」有益か無益なのか、損か得か、好きか嫌いかで価値を判断し、順位付けをしていく生きかたになります。私の一方的な価値基準によって、様々ないのちに順位をつけ取捨選択していく生きかたです。
 見た目が美しく、私たちの目を楽しませてくれる花や昆虫を珍重する一方で、そうでないものを雑草や害虫などと呼んで駆除することに躍起になります。しかし、雑草という名の植物も害虫という名の昆虫がいるわけでなく、どこまでいっても自己中心的な私の目によって「いのち」の価値を決めつけているのです。
 そしてそれぞれに自らを中心とした視点に立ち、自らの基準によって相手を価値づけして、評価しあい、順位付けをしあっているのが私たちの社会ではないでしょうか。
 こうでなければいけないという社会の価値観ではなく、その存在そのものが認められ、ゆるされていくという阿弥陀さまのまなざしが、私たち一人ひとりを包み込んでくださっています。
 私の目が、自己中心的なものさしで役に立つとか立たないとか、好きか嫌いかとか、良いもの悪いものと他者のいのちを取捨選択しているのに対して、阿弥陀さまの眼に映るいのちの姿とは、全てが等しくかけがえのない尊いものです。それぞれにいのちのかたちは違えども、そこに優劣、勝ち負け、賢愚を求めることなく、ありのまま、あるがままのすがたをそのままに受けとめていかれるのが阿弥陀さまのお心であり、まなざしです。