法話

「たのむ」ということ

見敬寺 塚田慧明

 💚12月の法話💚 

 受験シーズンにご門徒のお宅へお参りに行きますと、よく出くわす光景があります。お婆ちゃんがしつこく孫に向かって「一緒に座ってお参りしなさい」と大きな声で叫んだりします。お参りの後、お婆ちゃんに「なぜ今日に限って孫と一緒に?」と聞きますと、いつも決まって「この子、今年が受験の年だから」という答えが返ってきます。

 仏様の前で手を合わせてお参りする時に「自分の願いごとがかないますように」とか、「今自分にとって都合の悪いことが思い通りになるように」あるいは、「自分の家の者が皆健康でありますように」というような思いをもってお参りすることはないでしょうか?

はたして、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が「仏 を た の む」と仰せになられたのは、このような我がままを「たのむ」ことなのでしょうか?

 “全く違います”

 私たちは、この「たのむ」という言葉を、実は二通りの意味で使っております。

 例えば、自動車の運転を出来ない人がどこかへ行きたい時に、運転免許のある人に「どこどこへ行きたいので 乗せて行って下さい、たのみます」という我がままの「たのむ」があります。

 この時の答えは二つあります。一つは「はい(YES)」と快く乗せてもらえるとき、このときは「有り難う」が付いて離れません。

 もう一つの答えは「だめ(NO)」と断られ乗せてもらえないとき、このときは有り難うどころか「なんだいケチ、もうあんたにたのまないよ」と憎しみや愚痴になります。

 また、こんなシチュエーションでの「たのむ」というパターンがあります。自動車の運転を出来ない人が出かける準備をしているのを、運転免許のある人が見ていて「どこへ行くの?乗せて行ってあげましょう」と先駆けて言われたとき「申し訳ありません、たのみます」という「たのむ」があります。

 この時の答えは一つしかありません。間違いなく車に乗せてもらえるわけだから「有り難う」が付いて離れません。

 親鸞聖人が仰せになられた「たのむ」というのは後者のほうです。すなわち、阿弥陀如来様が私を思い「まかせよ、必ず救う」と、先駆けて喚んで下さる心を「たのむ」と言われたのです。

 ですから、間違いなく救われるから「有り難う」です。これが御恩報謝のお念仏「ナモアミダブツ」です。

 しかし、「たのむ」には相手の心が判らなければなりません。

道を歩いているとき、車が横に止まり「乗って行きませんか?」と突然に言われたら皆さんはどうしますか?

 まず、運転手の顔を見ると思います。その運転手が、親類の人や、友人や、ご近所の知り合いで、私のことを思って止まって下さった人であり、間違いない人だったならば疑いなく「申し訳ありません、たのみます」と乗せてもらうことでしょう。

 反対にその運転手が、全く知らないひと、判らない人だったらどうするでしょうか?「この人、私を山に連れて行って、何かするのではないだろうか?」「海に連れて行って何かするのではないだろうか?」と不安に思うに違いありません。「たのむ」どころか後ずさりすることでしょう。

 貴方の横に「阿弥陀様」が運転される車が、ドアを開けて「サァ!乗ってくれよ!」と止まって下さったらどうしますか?

 頭はパンチパーマ、額には大きなホクロ、としか見えない「仏様」の顔。貴方にとって全く知らない「阿弥陀様」、判らない「阿弥陀様」だったら乗せてもらうように「たのむ」ことはできないでしょう。

   そこで、浄土真宗では「聴聞」ということが大切とされています。

   聞かせていただくことです。

   一体何を聞かせていただくのでしょうか?

  「阿弥陀如来様」のお心を聞かせていただくのです。

 親鸞聖人は、「仏様」のお心は【親鸞一人(いちにん)がためなり】といただかれました。

阿弥陀如来様のご本願は誰のためのものか?あぁそうであった、わたくし親鸞のためにあったのか・・・と親鸞聖人はいただかれ「阿弥陀様」を「たのみ」、「阿弥陀如来様」と二人連れの力強い人生を、有り難うのお念仏「ナモアミダブツ」と共に生き抜かれました。

 私たちも「聴聞」に励み、「阿弥陀如来様」のお心は「私一人がためなり」といただき、私にとって間違いのない方であると疑いをはらさせてもらい、「阿弥陀様」を「たのみ」、二度とない人生を「阿弥陀様」と二人連れで、力強く、有り難うのお念仏「ナモアミダブツ」とともに生き抜きましょう。

                                         合 掌