一人鍋
龍昌寺 石塚龍悠
💚1月の法話💚
ひと昔前まで、一人の食事風景は「さびしい」とか「つまらない」と考える人が多かったように思います。つまり、家族や友人と囲む食事のほうが人生において充実した時間を過ごせるという風潮です。
ですが、それでは会話が主体になり、気配りだって必要となるでしょう。たしかに親睦には効果てき面ですが、心を料理に傾けてゆっくり味わうことはできません。
本来、食事とは個人的なもの。なので食事の時間帯は同じでも禅寺では私語禁止。ただ黙々といただくのが料理に集中し、施された馳走に感謝することに繋がります。
江戸時代には、鍋は一人前で提供されました。一人焼肉や一人鍋だと、友だちいないの?と冷ややかな視線を浴びることもありますが、目の前の料理を堪能するという目的からすれば全然問題ありません。
もちろん皆でテーブルを囲むことを否定するつもりはありません。美味しさにだって感想を述べあうのですから。ただ、食事はあくまで自身で楽しむもの。出された料理は私にとってのものです。
また食べ方だって十人十色。目玉焼きなどは、醤油派、ソース派、塩こしょう派と好みが分かれます。それはまさに個々により選ばれた世界だといえましょう。
「法味」という言葉があります。仏様の教えは一味(衆生の救い)なのですが、伝えられた我々には微妙な差が出ます。同じ料理であっても味わい方は人それぞれです。
浄土真宗ではこの「法味」を大切にします。いかに味わい深く、自分らしく阿弥陀様の慈悲や願いを心に噛みしめていくか。
歎異抄の後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という聖人の日ごろのお言葉が法味として記されています。
冬の寒い季節、みんなで鍋を囲む機会もあるかと思います。ですが、その集まりも本をただせば個の存在。一人ひとりの味わいが何より大切なことでしょう。
合掌