法話

善龍寺の喚鐘の生い立ちと今

善龍寺 小谷善親

 💚2月の法話💚 

喚鐘は行事鐘ともいい、法要や儀式の開始を知らせる合図の鐘です。一般的には半鐘とよばれています。善龍寺の喚鐘は今から三百十五年前に作られました。この喚鐘には次のような文字が刻まれています。

(正面)  宝永三丙戌年
     南 无 阿 弥 陀 佛
     極月七日
(右面)  茂次兵衛  六兵衛
     甚太夫  太郎兵衛
(左面)  若右衛門  七郎左右衛門
     新右衛門 傳九郎
     太兵衛
(裏面)  房州内浦
     善龍寺
       了山
 

 宝永三年は一七〇六年ですが、注目すべきはこの三年前の元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日に起きた元禄大津波により、当時は海岸近くの川辺にあった堂宇と住職親子が流されてしまったのです。一人か二人の寺族は難を逃れたようですが、詳しくはわかりません。この了山師は寛延元年(一七四八)に往生されましたが、その時に過去帖には養子の了空の書いた中興・遠州掛川円満寺より入寺とあります。年月は不明です。
 流失した本堂等は近くの市川に再建されたのですが、正徳五年(一七一五)に近所の火事から本堂が焼失してしまいました。建物等は木造ですので残りませんでしたが、喚鐘は無事でした。そこで了山師は津波や火事を避けて海抜十七mの高台に本堂を再建しました。ここは現在地ですが、単なる平地ではなく古谷といい、三方を小高い山に囲まれています。本堂建築には十年以上かけたようで完成は享保十四年(一七二九)です。
 喚鐘の重量はわかりません。海抜四mの平地から現在地までは石段しかなくそれをおよそ六〇段ほど登らねばなりません。ちなみに直接関係がありませんが、宝永三年の翌年の十一月に富士山が噴火しました。
 さて、二百三十年ほどの年月を経た昭和十七年か十八年頃に太平洋戦争が激しくなり、鐘や五具足などの銅製のものを供出することになりました。喚鐘はつぶされることもなく、近くの小学校の火の見櫓の半鐘として使用されていました。昭和二十年(一九四五)七月三十日米軍機による機銃掃射があり、一発が貫通して直径一cmの穴が開きました。
 戦後しばらく、そばの消防小屋の床下に放置されていたものを昭和四十年代に寺の役員達によって寺に戻ってきました。どのように運び上げたのか解りません。
 中興の了山師は江戸時代の記録による六世となっています。現在の私は十六世です。善龍寺の開基は寛永年間(一六三〇頃)との記録があります。元禄や享保を経て四箇所目のたたずまいです。その流れの中には常にお念仏がありました。そして喚鐘の「南无阿弥陀佛」本当にありがたいことです。 合掌