法話

鬼同志

大願寺 横田裕晃

💚 12月の法話 💚

 今年も残すところ一か月となりました。今年を振り返るとほとんどが緊急事態宣言の期間で、緊急事態が日常になっていたようです。また、夏にはオリンピックがあり、開催に対して賛成反対の立場から議論が起こりました。皆さんは賛成でしたか、それとも反対でしたか?それぞれの立場で意見があり、どちらも正義(善)を主張し、お互いに相手を非難し、分断がおこっていたようです。

 親鸞聖人は『歎異抄』に「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と仰いました。清沢満之師はこれを「何が善だか何が悪だか、何が幸福だか何が不幸だか、何が真理だか何が非真理だか、知り分ける能力のない私」と言っています。

 私の常識や価値観は、なんの当てにもならないという事ではないでしょうか。嬉しいと喜んでいたことが、悲しみの種に変わることがあります。喜びが大きければ大きいほど、失ったときの悲しみは計り知れません。深い悲しみから本当に大切なことを知ることが出来たり、良かれと思ってした事がかえって人を傷付けている事もあります。私が「善」と思っていることが、相手にとっては「悪」なことはいくらでもあります。いかに善悪の判断は難しいことでしょうか。

 お念仏を喜ばれた妙好人の浅原才市さんが夫婦喧嘩の後にこんな詩を作っておられます。

  おらのかかあの寝姿見れば 

じごくの鬼にそのまんま

  うちには鬼が二匹おる 

女鬼に男鬼 あさましや あさましや

  なむあみだぶつ なむあみだぶつ

 最初は、けんかした奥さんを鬼のように感じたのです。しかし、しばらくすると身からお念仏が湧き上がり、奥さんを鬼にしてしまった自分の方こそ大鬼であったと気づかされるのです。自分が正義と思っていたものすら、鬼であったと気づかせてくださるのです。そんなはたらきが「お念仏のはたらき」です。自分に都合のいいものを「善」といい、自分に都合の悪いものを「悪」とし、都合のいいものに対しては愛着し、都合の悪いものには憎悪の感情をもって対応している私の姿に気づかされるのです。

 自分の鬼、煩悩、自己中心性に気づかされる時、まさに仏が私を念じて下さり、その鬼をそのまま抱いてくださるのです。自分の立場を「善・正義」におき、相手を非難するのではなく、自分の「悪・鬼」(自分を善とし、相手を悪とする心)に気づかされることによって、共に鬼同志が認め合い、許し合うことができるのかもしれません。そして、共に「悪」の自覚に立つこと、それが「ただ念仏のみぞまこと」の世界なのかもしれません。