法話

我にまかせよ そのまま救う

真宗寺 柏倉学法

💚 2月の法話  💚

 南無阿弥陀仏のお救いは「我にまかせよ そのまま救う」のお呼び声とお聞きしています。私に生き方を示さず、罪も告げず、死に様も問われない。私の有り様を問われずに、ただただお救いだけをお告げ下さる如来さまであります。

 平易な言い方をすれば、私に「こうしなさい。ああしなさい。こうなりなさい。ああなりなさい」とは仰られない。何故にお救いだけを告げるのでしょうか。それは私の有り様を問うても間に合わないことをご存じだからではないでしょうか。

 娘が2歳半くらいの頃のことです。朝、私が洗面所で身支度を整えていると、娘が小さな椅子の様な台を持ってきて 洗面所と私の間に置き その椅子に登り始めました。すると「ちーも。ちーも」と言って蛇口から出てくる水に手を伸ばしました。ちーと言うのは名前です。娘も私の真似をして顔を洗いたいのでしょう。私は「お洋服のお袖が濡れるから止めなさい。床に水が跳ねるから止めなさい」と止めますが一向に言うことを聞かず、水遊びをしているようで楽しくなったのか、台の上で興奮して、きゃっきゃっ言いながら小躍りするように飛び跳ねていました。「こんなところで遊ぶと危ないよ。跳ねてると落ちるよ。危ないから止めなさい」と言っても聞かずに続けて悪ふざけしている矢先に どしーんと大きな音。椅子がひっくり返って娘は床に転げ落ちました。娘は何が起きたのか解らずに、驚きながら頭を押さえ「うーん、うーん」と呻きながら眼に涙を滲ませながら泣くのを堪えていました。私は大きな怪我がないことを確認してから「だからお父さん言ったでしょ!危ないよって言ったでしょ。落ちたら痛いよって言ったでしょ」と叱っていると、台所にいた妻が駆け寄ってきて私を制するようにして一言言いました。「お父さん違うよ」妻はすぐに娘を抱き寄せて、娘が手で押さえていた頭に自らの手を重ね、さすりながら声をかけました。「ここ痛いの?痛いね。痛いね。落っこっちゃったの びっくりしたね。痛かったね。もう大丈夫よ。お母さんがいるからね。大丈夫。大丈夫」と言いながら娘をギュッと抱きしめ、何度も同じことを声かけながらギューッと抱きしめると 娘は母の腕の中で大きな声で泣きながら、大粒の涙をポロポロとこぼしました

 『歎異抄』に「仏かねてしろしめして…」(註釈版聖典p836)と親鸞聖人がお示し下さっております。「如来さまは私の頭の先から爪の先まで、心根の底の底まで全部ご存じでした」という意味です。妻が娘を抱きしめる姿を通して 私はこの「仏かねてしろしめして」と示される、如来さまのお心お慈悲もそうだったなぁと味わうことでした。

 我が子の先を見据えて これをしたらいけないよ。これをしたら危ないよと生き方を告げねばなりません 悪いことをしたならば罪も告げねばなりません。しかし、告げた通りにならなかったならば 告げても罪を重ねてしまったならば 落ちた者に落ちないようにと注意しても間に合いません。それは救いにはならないのでしょう。すでに椅子から落ちて、痛み泣いている者の救いは何かと言えば「びっくりしたね。不安だったね。辛かったね。痛かったね」と、そのままに受け止められる世界に 落ちた者が安心して涙を流せる居場所が開かれるのではないでしょうか。

 優しくなりなさい。穏やかになりなさい。笑顔になりなさい。前向きになりなさいその様になれたらどれだけ良いか、誰に言われなくても解っていますが、その理想の通りに生きていくことができないのが私であります 周りの人を傷つけながら自らも傷つきながら、自己中心的に生きている私を見抜いてくださった如来さまだからこそ、こちらに一つも条件をつけず、点数もつけることなく、生き方を示さず、罪も告げず、死に様も問われない。「われにまかせよ そのまま救う」とただお救いを、南無阿弥陀仏のみ声となって、今、私に到り届いて下さっているお慈悲の如来さまを人生の支えに頂いていきます。

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