法話

「新しい領解文」に学ぶ

常圓寺 井上敬信

💚 5月の法話  💚

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽とんじん じゃぎ奸詐百端かんさひゃくたんにして悪性侵めがたし    『教行信証』『信巻』

本年1月16日に新しい領解文が西本願寺からご門主さまのご消息として発布されました。
この新しい領解文を通して浄土真宗のご信心をあらためて味わいたいと思います。

Facebookに浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会が取り上げられていますので、そちらもご覧いただければと思います。勧学、司教は浄土真宗の学僧であり、教義の要の方々です。https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899

南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝の お念仏

これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分ち合い
日々に 精一杯 つとめます

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

仏様の智慧の側から言えば確かにそう言えるのだと思います。ただ領解文の領解とは私の信心のことであり、領解文とは信仰告白の文章であります。自分の信仰告白に「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」ということは私は仏様であるというようなものです。これを本覚思想と言います。


 であるならば阿弥陀様は何故本願を建立しなければいけなかったのでしょうか?私が仏であるならば私を救う仏は必要ありません。仏なのですから。
 親鸞聖人は私のことを「煩悩具足の凡夫」と仰せられました。具足とはそれしかない、充満していることを言います。貪欲、瞋恚、愚癡の煩悩のかたまりが私であると仰せられるのです。無明の存在。智慧のない者が私なのです。だからこそこの私を「かならず救う」と阿弥陀様は私のために本願をおこし、「おまえを助けることが出来ないのなら私は仏にならない」とおっしゃられるのです。私は自分の領解に「本来一つ」とは決していただけません。

ありがとう といただいて

 2,3年前にうちのお寺のお彼岸の法要で御講師が法話が終わった際に拍手があがりました。大変恥ずかしい思いをしました。私は「法話は阿弥陀様のお取次ぎだから拍手するものではないよ。お念仏称えるものだよ」と教わりました。拍手は確かに講演される方に敬意を示すものです。法話でなく、講演であれば私も拍手します。ですが、法話は説法する側も阿弥陀様の御心の中、聞く側も阿弥陀様の御心の中、この両者が一味の世界にあることを大切にするのです。自分の心、自力の囚われの心ではないのです。
 ありがとうと自分の自力の心で感謝をするのであるならば、それは他力の信心にはなりません。それは自力の心です。

み教えを拠りどころに生きる者 となり 少しずつ 執われの心を 離れます

浄土真宗の生活信条というものがあります。「みほとけのひかりをあおぎ」からはじまるものです。信条ですから、規範、努力目標、このように生きたいというものです。念佛者も社会に生きる者ですから、対人関係、社会常識の中で生きていかなくてはいけません。生活信条であれば上の文章は私は受け入れます。社会の一員としてすこしでも宗祖が「世の中安穏なれ 仏法ひろまれかし」とおっしゃられるように世界中の人が笑顔で暮らせる社会が一番良いと思うからです。
 ですが領解とは私の信心、仏様からたまわった他力の信心のことです。親鸞聖人は『一念多念文意』の中で「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり」と仰せられます。
臨終の一念、亡くなるその瞬間まで煩悩しかないのが私ですよと仰せられるのです。
 新しい領解文の文章は聖者の生き方が示された文章です。仏様と同じさとりをもつ聖者であるのならば、正しい生き方が出来るのかもしれません。しかし私は聖者ではなく煩悩しかない凡夫なのです。


 執われの心は 離れならないのです
 むさぼり いかり しかないのです
 穏やかな顔と 優しい言葉がなくなるのです
 喜びも悲しみも 分かち合えないのです
 日々に 精一杯 つとめられないのです


「浄土真宗は生き方を問わない」、条件がつけられたらもれてしまいます。かわらないといけないと言われたってかわれないのです。だからこそ私を「そのまま」に救うと誓われたのです。たからこそ親鸞聖人は『歎異抄』に「聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを」と仰せられるのです。

コメント

某信徒
2023-07-07 @ 12:59 PM

新しい領解文の内容と、本来一つ、とらわれの心を離れる、という部分が矛盾したままの内容でよくわからないです。
新しい領解文の内容が間違っている、と受け止めましたので、今後は以前の領解文を唱和いたします。



日吉 和久
2023-06-22 @ 2:32 PM

大願寺さんにお参りさせていただいてます。
たしかに今回の領解文については単に現代語訳では無く内容改変を伴っていると思います。
それに加え真宗教団連合(十派)の中で本願寺派だけが領解文を改変してしまった事は連合の「加盟各派の更なる連帯協調」に反するのではないでしょうか?
確かに十派には色々な差異がありますが同じ経典を用い親鸞聖人にお示しいただいた教義を信じてゆく凡夫たちであります。
その教義を集約した領解文を本願寺派だけが改変してしまったと言う事は真宗教団から「はなれ」に成ったと言えないでしょうか?
領解文現代語訳であれば十派に打診すれば自ずと内容は収束して問題のない改変と成り共用することに成っていたでしょう。
本願寺派前総長は千葉組に所属されていると思いますがどのやぬな経緯だったのでしょうね?



    菅原俊軌(山陰・大田東・高林寺)
    2023-10-31 @ 6:35 AM

    >同じ経典を用い親鸞聖人にお示しいただいた教義を信じてゆく凡夫たちであります。
    その教義を集約した領解文を本願寺派だけが改変してしまったと言う事は真宗教団から「はなれ」に成ったと言えないでしょうか?

    ☆ 知る限りでは高田派、並びに木辺派では蓮如上人に対して対立した歴史があります。それは両派とも多くの自派の寺院・門徒が蓮如上人の方へ帰参したということから起こったのです。したがって両派では御文章などの蓮師御著述を用いていないはずです。

    真宗十派の共通項は【親鸞聖人】だけで、二種深信をしっかり踏まえていないという点は共通理解が出来るでしょうが、領解文については大谷派とのみ共通の話題となるのみではないでしょうか。



通りすがり
2023-06-06 @ 8:51 PM

とても勇気のあるご投稿に感謝申し上げます。(ひざ元ですから)
補教、おめでとうございます!



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