法話

住職の後生の一大事②

照光寺 脇本正範

💚 7月の法話  💚

 往生即成仏(臨終の瞬間に仏さまに成ること)という専門用語があります。往生はお浄土に往き生まれるという意味なので往生=臨終だと思い違いをしていました。これでは死なないと助からないということになります。死んだあとの救いと勘違いしていました。自分の頭で理解し作り上げた証拠です。浄土真宗の教えに照らして死んだ瞬間に悟りを開くということは間違いではないのですが大切なのは往生することがいま決まることです。生きている間に決まります。死んだあとに決まるのではありません。これがはっきりしないと死に対する恐れを乗り越えることができません。 
 親鸞聖人は信心が定まるとき往生また定まるなりとお示しですからいま信じるこころをいただくことが正しい往生の理解の仕方です。仏に成るのは往生するときですが仏に成ることが決まるのは今という意味です。法事の後に拝読する御文章に往生治定とか決定とか出てきますがそこです。
 梯実円和上は往生即成仏を「新しいいのちの出発をする」といいかえてくださいました。お母さんのお腹から出てくるときに怖いと思った人はいません。新しいいのちの出発が死でありますから怖く思う必要がないのです。
お医者さんにこのままだとあなたは死ぬと言われてから死の恐怖心が痛切に迫ってきてずいぶんと追いつめられました。みなさまも同じ思いを抱いたことがありませんか。朝も昼も夜もいっときも落ち着きませんでした。自分の力ではどうしようもないので朝から晩まで法話を聞きました。この世界から消えていなくなる。あらゆる世界が失われる。すべての物、人に触れることができなくなる。わたしの存在がなくなってしまうと思い込んでいるので助かりません。迫ってくる死の恐怖心は自分自身でこしらえた世界にとどまっているようなものなので逃げ場所がないのです。
そのような心境であっても助かりたい一心で法話を聞き、ノートに何度も法話で語られる言葉を書きなぐりながら過ごしました。切羽詰まっているので必死です。
そんなある日、ふいの一瞬に阿弥陀如来から「おまえは仏になる。心配するな」「必ず仏になる」という言葉を常に投げかけられていることに気付きました。ハッと我に返って「そうか私は死なないんだ。仏さまになるのか」という心をいただいた瞬間にすっと恐怖心がなくなったのです。  
これは本当に有り難い出来事でした。助かったと思い感動しました。
梯和上と大峯和上が「死ぬこと問題なくなったら本当の安らぎが恵まれる」とほほ笑んでおられた姿を思い出します。ありがたかったです。浄土真宗のご利益は死なないいのちにしてもらうです。その言葉がわいてくると生きていることがうれしくなります。死にたくないと思っていた心に死なないという言葉があふれるのです。ふいにわからせてもらった時から世間に対する見方も変わりました。あの人もこの人もみんな仏になる種をもったいのちをいただいている。南無阿弥陀仏を称えたらみんな仏になる。死なないいのちになる。虫も木も花も山もみんな仏になるいのちだった。阿弥陀如来の言葉を聞くことができたという喜びです。
 人生ではじめて安らぎました。お寺を建てないといけない。土地建物を購入しないといけない。家族を養わないといけない。お金を稼がないといけないと心配する言葉ばかりを口にしていよいよダメになりそうなとき「仏になることが決定していた」という事実を知り、自分の頭の中で阿弥陀如来の言葉をこねくりまわしていたと気付いたのです。この気付きは大きな安らぎをもたらしてくれました。その安心感は自分で努力して手に入れた安心ではありません。阿弥陀如来からいただいた安心なのでなくなったりしません。
死の恐怖で切迫していた心が平和で穏やかな心に変わったので感動しました。その心は阿弥陀如来のこころそのものです。真実の安らぎが恵まれるという言葉が本当だったと大喜びしたのです。
みなさまはいかがでしょう。生きることと死ぬことの問題が解決したら死んでいくことが何も怖くはありません。死んだ瞬間にお浄土に生まれ阿弥陀如来と同じ仏となります。おそれる必要はこれっぽっちもないのです。
そのような思いに到るきっかけも大峯顕和上の法話からいただきました。有難い言葉がたくさんありますが目が覚めるきっかけになったのは「死んだくらいでは助かりません。死んだくらいで仏になりません」です。死んだら助かると思い込んでいた私のこころを打ち砕いてくれました。ありがたかったです。
あの言葉に出会うことができなかったら助かりませんでした。あきらめてやぶれかぶれになっていたらこの手紙を書くこともなく死んでいたかもしれません。ありがたいです。お坊さんの言葉を信じるということではなくその人の口から出てくる阿弥陀如来の言葉を信じると助かります。語る人は大峯顕和上というお坊さんの言葉です。語らせているのは阿弥陀如来の言葉です。梯実圓和上も同じです。僧侶の言葉ですが阿弥陀如来の言葉です。ご門徒も同様で、阿弥陀如来の言葉を聞き続けたら語らせてくれる力が恵まれ阿弥陀如来の言葉を語りはじめるのです。みんなが阿弥陀如来の言葉を語るようになればみんなが助かります。これ以上のご利益はないでしょう。ご法話の聞こえ方も変わりました。お坊さんがしゃべっているという聞き方ではなく阿弥陀如来がその人の口を使って人間が助かる本当の言葉を語らせてくれるという聞き方です。
この視点の大転換はこの世が娑婆でありながら仏の言葉に満ちあふれている場所だったという目覚めをもたらしてくれました。生きていることが不思議で毎日が楽しくなりました。阿弥陀如来に感謝です。

(来月に続く)

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