法話

身をゆだねる

   高林寺 菅原智之

💚 10月の法話  💚

 暑すぎた夏でした。秋らしい秋は来るのでしょうか。もう来ないのでしょうか。如何お過ごしですか。

◇結局自分の欲望を拝んでいる

 大きな事件によって「宗教と政治」が話題となりました。宗教は一括りに出来ないほどの多様性がありますが、この様な分類をすることも出来ます。

 ①神仏の力を借りて自分の都合を満たすもの。

 ②自分の都合を満たすという価値観を超越した教え。

 「自分の都合を満たす」。勿論そうあって欲しいものですが、我々の命は都合通りにはなりません。老・病・死。愛おしい方との死別。望まないのにそうなってゆくのが現実です。

 実はここが分岐点。①の宗教は言います。「だから神仏の力にすがって、自分の都合を叶えるのだ!」。でも時には高額な金品が強要されることも…。

 周りの人はその姿を「信心深い」と受け止めたり、また「だまされている」と気をもんだり。

 「その姿は一見殊勝に神仏を拝んでいるように見えますが、本当に拝んでいるのは自分の欲望ではないですか」とは本多静芳先生の言葉です。なるほど。

◇力の信奉者

 世間一般では「私以上の力を持っている」ものを神・仏と呼んでいるようです。だから超絶技を披露する人を「○○の神」と呼んだりします。そこにあるのは「力こそが最上の価値」というものです。

 そして神仏と同列に崇められているものがあります。お金です。勿論お金は生きる為に大切なもの。衣・食・住すべてにお金が掛かるのですから。

 自給自足の生活ならば、手間と時間は掛かりますがお金は不要です。お金とは「他人の力を借りる為の対価」として発展してきました。外食したり、便利な機械を買ったり、乗り物に乗る等、時間短縮の手段を買う為のもの。実にお金とは「私の力」を拡大してくれます。

 神仏やお金の力を借りてでも、自分の力を増やしたい。「自分の欲望・私の都合を叶えるため」に。我々は「力の信奉者」です。

◇お浄土の心

 しかしどんなに力を持っていても叶わない領域があります。それが我が命。

 生まれたものは、老い、病み、死にゆく。出会いし人とは別離してゆく悲しみ。これは神様・仏様・お金様の力で逃れられるのでしょうか。残念ながらそれは不可能。命の道理の前では、私の都合は叶わなくなるのです。

 お浄土とは阿弥陀如来のさとりの世界です。それは「自分の欲望を満たすという価値観を超越した世界」、②の立場です。

 お浄土はこの世を映します。「力の信奉者」の世界、自分の欲望を拝んでいる我々の迷いの姿を。そして自分の都合を追い求め続けるが故にいがみ合い、争いが絶えない社会の有り様を。

◇身を任せる

   わからない世界の方が豊穣(ほうじょう)です。

   「わかることが無理」だとわかると

   なりゆくいのちに身を任せるしかありません。

      生物学者・思想家 最首(さいしゅ)悟

 最首さんは、重い障害を持った娘さんと共に歩んでいます。「力」ではどうにもならない「命」と向き合う日々。

 都合通りにはいかない事実を噛みしめながら、やって来る現実を戴くだけ。それを最首さんは「豊穣」であると言い、そのままの私を頂戴することを「なりゆくいのちに身を任せる」と仰います。

 真っ新な気持ちで、次々に起こる出来事に出遇ってゆくそのままが「生きる」と言うことだと。それは阿弥陀如来の本願他力のすくいに通ずる歩みです。

   私を見ていてくださる人があり

   私を照らしてくださる人が あるので

   私はくじけずに こんにちをあるく

          念仏詩人 榎本 栄一

 「南無阿弥陀仏」のお念仏は、さとりの世界からの喚びかけです。自分の都合が叶う・叶わないにかかわらず「あなたをすくう」と。それはこのままの私を抱き取って離さない願いとはたらきです。

 その心を戴く時、力を抜き身を任せるしかなかったと頷く私。それが自分の都合を叶えるという価値観を超越した浄土真宗のすくいです。

         ◇ ◇ ◇

 仏さまのみ教えは「力の信奉者の私」を解き放ちます。お浄土のお心を是非共に聴聞致しましょう。

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